インディヴィジュアル・プロジェクション考察:“フリオの歌を聴け”

以下では阿部和重著『インディヴィジュアル・プロジェクション』についてネタバレしています。未読の方はご注意ください。言うまでもありませんが、この内容は解釈のひとつでしかないです。それらをご理解の上でお読みください。


1.メタフィクション的構造
本作は、一人称日記形式で語られる、多重構造を持った物語=メタフィクションである。主人公であるオヌマの職業は映写技師だ。彼の主な仕事のひとつに、映写中にランプの熱で焼き切れてしまったフィルムを繋ぐ作業がある。フィルムを繋ぐために使用されるのは別の映画のフィルムである。これによって、映画はディレクターズ・カットならぬオヌマ・バージョンとなる。それは、オヌマ自身の作品ということもできる。些細な改変ではあるが、オヌマによって手が加えられた以上、既にオリジナルとは言えないからである*1
日記の序盤から中盤まではオヌマの過去と現在について淡々と事実が語られていくが、終盤にさしかかるにつれてオヌマは混乱し、彼の思考は乱れる。そして物語の終盤ですべてのトラブルが解決しオヌマは平静を取り戻す。最後はこの“日記”に対するマサキの感想で締め括られることになる*2。つまりオヌマによる日記は、作中で述べられていた高踏塾でのレポートだったというオチである。これによって、オヌマの日記はメタフィクションとして回収されているわけである。その日記の後半部分で物語の語り手であるオヌマが混乱し、それに伴って読者は作中の何が事実で何がオヌマの妄想なのか判断できなくなってしまう。日記のこの部分はオヌマの心理状態と同様、非常に不安定である。確かに本作の中盤は物語を少なからずややこしくしているが、『インディヴィジュアル・プロジェクション』を読み解くために最も重要なパートも同じく中盤であると言えるだろう。その中盤には以下のようなオヌマによる独白がある。

結局ぼくは怒りがおさまらなかったため、後半のセックス場面をカットしてやった。どうせくだらない映画だ。ぼくら映写技師が救ってやらねばどうにもならないようなクズ映画なのだからむしろ悦ばしいことなのだ。映写技師をなめないほうがいい。というか、映写技師だけを尊敬しろ!映画を作っている連中は暢気すぎる、なぜなら映写をやるのはこのおれなのだ、渋谷国映で上映される映画はすべておれの作品なのだ、もっとおれが編集したほうがいいのだ、できれば二本立てではないほうがいい、つまり二本の映画をおれが一本に再編集して上映したほうがおもしろいに決まっているのだ!いったいおれが何度フィルムを繋いだと思ってるんだ!これからどんどんショットを入れ替えてやるぞ!(8月27日より)

この記述とオヌマが映写技師であることから、ある推測ができる。すなわち、『日記の中盤が、実はオヌマによって意図的に不安定にされたのではないか』ということである。オヌマに言わせれば、映画館で上映される映画は映写技師の作品だという。それは先に述べたように、熱で切れたフィルムを別の映画のフィルムで繋いでしまうことによって、厳密な意味でのオリジナリティが失われてしまうからだ。そして、フィルムを繋いでしまうことは確かにオリジナリティの喪失といえるかもしれないが、他方では新たな“オリジナリティ”を生み出す行為だとも言えるだろう。それはオヌマ自身も語っている通り、編集を実行する者が映画の作者となるからだ。この文脈から『インディヴィジュアル・プロジェクション』を読むとき、映写技師とは創作者のメタファーであるということが見えてくる。そして創作者とは、日記の作者も含むことができるはずだ。
また登場人物たちは物語の進展とともにオヌマに回収されることになる。ヒラサワ、カヤマが語った台詞と同じものを後のオヌマも口にするようになるし*3、8月28日の最後の記述で示されたオヌマの心情はマサキの高踏塾設立の動機のようだ。さらに狂ったオヌマは自分とイノウエを混同する。これはインディヴィジュアル・プロジェクション=個性的/個人的な反映というタイトルを表しているといえるだろう。日記の中で描かれる人物たちはオヌマの個性を反映している。なぜかといえば、高踏塾のレポートでマサキがそれを課しているからだ。

確かマサキは、登場人物たちの心理面にまで立ち入った描写を要求し、自分以外の誰かに徹底してなりきってみることが肝要で、起こり得る出来事の可能性をより多く想定せねばならないと語っていた。(6月30日より)

マサキが塾生に対して“誰かになりきること”を課したのは、彼がスパイ賛美者であるからだ。スパイとは誰かになりすましたり、あるいはふりをしたりする存在であり、その訓練としてレポートの中で塾生たちにも別人格を振舞うように課している。先ほどは『登場人物たちはオヌマに回収される』としたが、より正確にいうのなら、『登場人物は基本的に全員オヌマである』ということになるのだろう。そして、マサキの感想も同じ意味を持つ言葉で結ばれている。

そう、すでに君も気づいているかもしれないが、これはまさに私の歌でもある。「ボヘミアン/詩人/宿無し/みんなわたし」だとフリオはいう。私もそうだ。君はどうか?そろそろ君も、「みんなわたし」だと言い切らねばならぬ頃だと思うが、どうだろう?

ここでマサキが述べていることは、虚構の中の人物とは作者の分身でもあるということだ。そのためには、物語の最後をマサキの感想で締めくくらなければならない。なぜなら、マサキの感想をオヌマの日記より上位に配置することによって、オヌマの日記は虚構性を獲得することになるからだ。オヌマの日記が虚構性を獲得したということは、オヌマの日記も映画と同様ということに他ならない。
オヌマは熱でフィルムが切れたとき、別の映画の3コマぶんのフィルムを用いて切れたフィルムを繋いでいる。オヌマによると、鑑賞者にはその3コマを認識することはできないという。これはまるで、日記の中盤に登場したカヤマそのものだ*4。カヤマはオヌマにしてみれば確かに存在したはずなのに、読者にとっては判断のしにくい領域となっている。最終的にはイノウエの相棒ということで落ち着いたが、それもそのまま信じられるものではない。ある映画が映写技師オヌマの手によって“オヌマ・バージョン”とされるように、創作者オヌマの手によって、日記にも同じようなノイズが入り込んでいると言えるのではないだろうか。

2.二項対立的構造
日記というものは本来的には現実そのものを書き上げるものである。誰かに見せるためのものではなく自分のために描かれるものである以上、そこで嘘を吐く必要はない。つまり日記とは、虚飾がない、現実としての純度が高い物語であり、本作では“現実”のメタファーとして用いられていると仮定しよう。それは、イコール写実性とすることも可能だろう。対する“虚構”は、別のフィルムで繋がれた映画だ。元から虚構であるものをさらに虚構で改変することによって、虚構性の高さを獲得している。しかし現実に即しているはずの日記とはいえ、オヌマの書いたそれには虚構がノイズとして紛れ込んでいる。ここでは、カヤマの存在が別の映画のフィルムの役割を果たしている。つまりオヌマの日記は、日記の体裁を持った虚構だといえる。それは虚構が現実を侵食するイメージだ。阿部は、オヌマの日記形式というメタフィクションを用いて、虚構のリアリズムと写実主義のせめぎ合いを描いているのだ。そしてオヌマはフリオの歌に魅せられている。彼はフリオの歌、とりわけ『33歳』を聴くと本能をじかに刺激されるようだという。

結局、やることがないのでぼくはまたフリオの歌を聴いている。
「33歳」の訳詞をあらためて読みなおしてみて、一つ肝腎なことに気づいた。この歌は何かと何かの「あいだ」に立つことを謳っている。(6月24日より)

何かと何かの「あいだ」に立つことを歌う曲に、オヌマは惹かれている。それは、オヌマ自身が何かと何かの「あいだ」に立っているからだ*5。現実に即している日記を書きながらも、そこに虚構をノイズとして紛れ込ませるオヌマ。何かと何かとは虚構と現実を表している。つまり、村上春樹の『風の歌を聴け』から『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』までの流れに見られる、虚構と現実の二項対立が問題にされているのだ。
この文脈で本作を読むと、8月2日の記述でカヤマが“右か左か”をオヌマに迫ることも二項対立だといえるだろう。ここで「どちらでもない」と言うオヌマを、カヤマは「時代遅れ」で「完全に終わって」いるとして切り捨てている。つまり、村上春樹が既に提示している二項対立に未だ拘泥しているオヌマを時代の遺物として扱っているのだ。その証拠に、オヌマは日記を通して二項対立までしか描くことができなかったが、マサキの感想ではむしろその先の可能性が求められている。オヌマが『33歳』の中に二項対立を見出したことを評価せず、マサキは『さすらい』の歌詞に可能性を見ている。『そろそろ君も、「みんなわたし」だと言い切らねばならぬ頃だと思うが、どうだろう?』として、オヌマに次のステージへ目を向けることを要求している。『さすらい』の中の一節、『ある場所を探し求めて生きている』。つまりそれは二項対立を通過して、ポスト村上春樹の文学が目指す場所である。
村上春樹による『風の歌を聴け』にはじまり、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』まで続く二項対立をモチーフにした作品群から、近年の舞城王太郎九十九十九』へと連なる“虚構のリアリズム”の系譜を過渡的に埋めるのが『インディヴィジュアル・プロジェクション』ということになるだろう。

*1:ある映画のフィルムを繋ぐために用いられるのが“別の映画”のフィルムであるというのは示唆的である。“別の映画”、つまりそれ自体が何がしかの作品というわけである。そのようなフィルムによって繋がれた映画はオヌマ自身の作品となる。この構造は、虚構によって虚構が作り上げられているというメタフィクション的二重構造であると同時に、シミュラークル/二次創作/スーパーフラットといったポストモダン的な構造を想起させる

*2:厳密に言えば、マサキらしき人物(M)による感想ということになるが、いちいち書き続けるのも煩わしいので以下ではマサキによる感想と断定する

*3:また、ラストのオヌマはヒラサワのように高校生グループに狙われる

*4:そのカヤマが3コマのフィルムを認識できることからも、そのように推測できる

*5:先ほどは例示しなかったが、アヤコもオヌマ自身である。アヤコがオヌマのように余所見をするようになるばかりではない。オヌマが二項のあいだに立っているように、アヤコも「あいだ」に存在している。それは、彼女の誕生日が乙女座か天秤座かはっきりしないという記述に現れている(7月30日より)