『ゼロ年代の想像力』第2回で気になった宇野常寛と東浩紀のズレ

S-Fマガジン 2007年 08月号 [雑誌]

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ゼロ年代の想像力』第2回を読んだ。一昨日のエントリに書いたとおり薄々感じてはいたけれども、宇野常寛東浩紀と少しばかりかみ合っていないように思った。

東浩紀は『動物化するポストモダン』で、エヴァ以降に加速した、ただひとつの物語(原作)が複数化されてしまう二次創作空間について焦点を当てることを主眼にしていた(それを彼はデータベース消費と呼んでいた)。そして『ゲーム的リアリズムの誕生』では、ただひとつの物語が複数化されてしまう二次創作空間で、それでも単一の物語を語ろうとすればどのような手法が必要になるのか、それを我われはどのように受容するのか、そういったことを検討していた。それを彼は「マルチエンドをどう文学的に処理するか」という問題だと語っていた。(ここでのマルチエンドとは、単にノベルゲームのことを指しているだけでなく、二次創作のことも含まれるはずだ)

つまり東浩紀は、セカイ系を追っていたのではなく、消費環境と、その環境がどのように想像力(物語)を駆動していくのかを追求していたと言える。そして、そのときの参照作品がセカイ系だっただけなのではないだろうか。これに対して宇野常寛東浩紀セカイ系の亡者と呼んでいるので、話が妙に食い違っているように見えて仕方がない。(東がセカイ系を評価していることに変わりはないが)

そして、宇野は消費環境についてはあまり興味がないように思う。90年代を扱った『ゼロ年代の想像力』第2回でも、90年代以降を表す特徴のひとつである二次創作については触れられてもいない。

誤解しないで欲しいけれど、別に宇野がオタク系文化を蔑ろにしているのが問題だと言いたいわけではない。これは単に、両者の見ているところが違うような気がしてならないという話をしたいだけだ。

宇野の興味は、オタクたちの空想的な消費態度(それこそ引きこもり的な)ではなく、現実的なインシデント(1995年の出来事や9.11など)が虚構を生み出す想像力にどのような影響を与えるのか、といった部分に集中しているのではないかと思う。

だとすれば、宇野の矛先は、セカイ系を評価する東浩紀にではなく、さまざまなインシデントの発生以降も相変わらずの空想にいそしんでいる二次創作空間と、それを評価している東浩紀に向かうべきなのではないだろうか。なぜなら、二次創作空間を生み出したのは別にセカイ系的な想像力ではないはずだからだ。(加速させたのはエヴァかもしれないが…)

第2回を読んで以上のようなズレが気になった。ただこのズレを感じてしまったのも、『ゼロ年代の想像力』が連載途中だからだとは思う。第3回以降では新たな視点が提示されて、逆に俺の軌道が修正されれば良いと思う。これでも俺は、宇野常寛の言説を興味深いと思っているんだから。