『ガンスリンガー・ガール』をめぐる冒険(2)

GUNSLINGER GIRL 2 (電撃コミックス)

GUNSLINGER GIRL 2 (電撃コミックス)

本エントリは、以下の前提条件のもとに成立しているということを明示しておく。

  1. 「『ガンスリンガー・ガール』をめぐる冒険」のルールに準拠する
  2. 村上春樹著『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のネタバレを含む

前回のエントリにも書いたとおり、この作品にはオタクと二次元美少女の関係性という視線を当てようとしている。そのとき、主体に置きたいのはもちろんオタクであり、それはこの作品における"担当官"という役割に該当するだろうと考えている。

ヘンリエッタの担当官・ジョゼは、ヘンリエッタを、言葉どおりの意味で大切にしている。彼女の記憶が失われることを危惧して「条件付け」を最低限度に留めようと努力をし、彼女の身体が傷つくことを好まない。しかし、この振るまいは身勝手なもの、場合によっては自己欺瞞にも見えかねない。

なぜなら彼の苦悩は、かつて少女だった存在に機械の手足を与えることで義体化し、少女としての身体性を奪い、さらに薬物によって「条件付け」をするという、ジョゼ(と社会福祉公社)によるヘンリエッタの改竄、つまりピグマリオニズムに依拠しているように見えるからだ。だとすれば、ヘンリエッタを大切にするという彼の行為は自己を正当化するようなものだと言えるが、これをもう少し追求してみたいと思う。具体的には、補助線として柄谷行人村上春樹と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』にあてた言葉を用いて、ジョゼのこの振るまいをさらに検討しようと考えている。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は1985年に発表された村上春樹の長編第4作品だ。幻想的な『世界の終り』と現実的な『ハードボイルド・ワンダーランド』、まったく異なる世界でありながら関連性を持つ二つの物語が交互に語られるという形式になっている。一般的に、この構造はそれぞれが虚構と現実を表しているとされている。特に象徴的なのが、『世界の終り』が主人公である「僕」以外の人物は心を持たないという設定を抱えていることだ。そこでは、「僕」は心を持たない女の子と交流をし、彼女の内面に変化を与えていくという神話のピグマリオンを思い起こさせるようなストーリーが語られていく。物語のラスト、『世界の終り』で「僕」が「影」に対して次のような台詞を言う。

「僕は自分が勝手に作りだした人々や世界をあとに放りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。(中略)僕は自分がやったことの責任を果たさなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」

これについて柄谷行人は、『終焉をめぐって』の中で村上を批判する。それは端的に言って、「自らが創り上げた虚構に対して責任があると表明する態度は、現実には無責任と何も変わらない」というものだった。この指摘は、相田裕の『ガンスリンガー・ガール』にも当てはまるのではないだろうか。

柄谷に従えば、「僕」と同様にジョゼの態度もまた無責任だと言える。ジョゼはヘンリエッタを人間らしく扱おうとするが、ヘンリエッタ義体に選んだのはジョゼである。その結果、ヘンリエッタは薬物による「条件付け」と機械の身体を与えられ、"普通の女の子"ではなくなった。つまり、ヘンリエッタとジョゼの関係性において、戦闘美少女=虚構を生み出したのはジョゼ自身だという構図を見ることができる。

しかし、ジョゼはヘンリエッタの「条件付け」を最低限度に抑えようとし、香水や衣類、カメラや日記帳などのプレゼントを怠らない。彼女のために喫煙癖とも手を切っている。つまり、戦闘美少女を"普通の女の子"として扱おうとしていることが見て取れる。これは虚構に対して責任を取ろうとすることと同義である。よってジョゼの一連の態度は「僕」と変わらないと言えるだろう。ジョゼは無責任だ。

しかし誤解しないで欲しい。ここでは上記の柄谷行人の指摘を負の方向に扱おうというつもりはない。むしろ逆である。ジョゼの態度が「僕」と同じく無責任であるとすれば、『ガンスリンガー・ガール』は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に連なる系譜として、ゼロ年代につながる想像力を備えた作品として重要なのではないか、ということを指摘できるだろう。そう考えているのだ。

この作品の義体(少女)たちは何らかの形で生きている実感を得ているようだが、同時に妙な形で縛られているのではないかと思える。例えばヘンリエッタは一心不乱に担当官であるジョゼに尽くそうとする。彼の役に立つことを何よりも求め、それが彼女の存在意義となっているという描写が繰り返される。そんな彼女は第5話でそのもの「恋する乙女」と表現されており、また第10話の冒頭を見る限りではその在り方はほとんどストーカーじみてさえいる。いずれも対象となるのはもちろんジョゼである。

一方のジョゼもヘンリエッタを仕事の道具と見なすようなことはせず、彼女の心を大切に扱う。この作品では、社会福祉公社での活動を共にする担当官と義体(少女)の組み合わせをフラテッロ(兄妹)と呼んでいる。しかし、ジョゼとヘンリエッタのお互いを想うさまは、兄妹という言葉から連想されるような普遍的なものではなく、より恋愛関係に近い。

ただ、彼らの関係が恋愛を想起させるとして、その想いが決定的な箇所で脱臼させられていることは見逃せないだろう。すなわち、"ヘンリエッタは子宮を持たない"という点において。

恋愛のひとつの結果として妊娠・出産を経た家族の形成があるとすれば、このフラテッロにはそれが許されていないということになる。戦闘美少女=虚構としての身体性を与えられたヘンリエッタはさらに子宮を剥奪されているという設定を与えられたことで、オタクとの関係性において、虚構のさらに虚構であることを象徴的かつ自覚的に刻印されている。この点については、『AIR』と関連付けて論じることも可能なのではないかと思う。

まだ第2巻までしか目を通せていないのに早計かもしれない。しかし、上記で指摘したようないくつかのポイントにおいて、『ガンスリンガー・ガール』にオタクと二次元美少女の関係性を見出せるのではないかと感じている。加えて『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』から『AIR』へ、ひいては『ガンスリンガー・ガール』という流れを俯瞰していくことで、ゼロ年代のボーイ・ミーツ・ガールがどのように消費されていくのかを検討する足がかりにもなるのではないかと感じている。

最後になるが、id:amiyoshidaさんからは第1回のブクマコメントにて、本作には「少女に幸せを自覚的に選択する自由がある」という興味深い示唆を頂いた。冒頭にも書いた通り、『ガンスリンガー・ガール』についてはオタク=男性からの視点を主体として考えていく方針だったため、少女側の視点については完全に見落としていた。せっかく頂いたご指摘、これもあわせて検討できたらこの作品をより楽しむことができるのではないかと思う。<続く>