第6回:ふりと演技

以下では舞城王太郎の初期作品、『煙か土か食い物』『暗闇の中で子供』『世界は密室でできている。』についての重度のネタバレと、『みんな元気。』についてのほんの少しのネタバレが含まれています。ご注意ください。内容は、舞城作品に概ね共通のテーマについてです。また、これらは個人的な解釈でしかありません。それをご了承ください。



初期の舞城はミステリ仕立てで“親子関係”をテーマにした作品を書き、後続の作品では“ふりと演技”というテーマが追加的に入り込んできて現在に至る、というのが以前までの個人的な見解だった。しかし今では、舞城は最初から“親子関係”と“ふりと演技”の2本柱をテーマとして主要作品を書いていたということを認識している。時期を逸したという感じは否めないのだが、以下、“親子関係”を抜きにして3つの初期作品における“ふりと演技”の所在を個別に見ていこう。


1.『煙か土か食い物
第4回で考察したように、幼少期の四郎が二郎と未分化だったことがこの作品の鍵の1つである。その結果、四郎は二郎に憧れて“二郎が手にしたはずのものと同じ類の自由”を手に入れるために奈津川家からアメリカへと逃避する。四郎が二郎に同一化したことが両親との不和の一因となり、二郎という名のトラウマを解消したことで両親との関係も改善された。また、丸雄が四郎を「二郎の生まれ変わりのようだ」と評したことも同時に挙げておこう。以上の流れから、四郎が二郎のふり/演技をしたということはできないだろうか。たとえそれが無意識であったとしても、四郎が二郎に影響されたことは否定できないのだから。
以上は深読みに過ぎないと一笑に付されても仕方のないものではある。しかし『煙』には“ふりと演技”に関するクリティカルな要素が存在する。わざわざ指摘するまでもないことではあるが、それは二郎によるテリー・レノックス計画だ。別人になりすまして仮の人生を歩むというのは、まさしく“ふりと演技”に他ならない。つまり『煙』は、実家を捨てて誰かのふりをして生きる二郎のふりをして生きる四郎の物語だということもできる。
参考(私的舞城論第4回):http://d.hatena.ne.jp/nuff-kie/20050312/p1

2.『暗闇の中で子供』
作品全体に“ふりと演技”が横溢している。クラリスと化す三郎*1、クレンドラーと化す三郎、ホモのふりをするオカチ。『自分とラフマニノフの違いが判らないくらいに俺はこの作曲家に近づいていた』という記述もそれに類するものだと言えるかもしれない。そして本作にもクリティカルな要素が含まれている。それは『ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ』という本作の核心部だ。これを換言するなら、物語というものは“虚構のふりをした真実”だと言うことができるだろう。つまり、『暗闇』それ自体が大きな“ふりと演技”だと言えるのではないだろうか。


3.『世界は密室でできている。
奈津川サーガのサイドストーリーと位置づけられることが多いが、本作は三郎による小説「ルンババ12シリーズ」の中の一作であるとみるべきだろう*2。根拠を以下に列挙する。

  • 『煙』の番場潤二郎と本作の番場潤二郎は同一人物ではない*3
  • 『煙』と時系列が合わないため、ルンババが子供の頃の物語とするには無理がありすぎる
  • 本作の終盤に登場する、4つの建造物が作り出す第5の密室。その屋根にはハーケンクロイツが表れるが、これは『煙』で三角蔵の天井を動かしたときに表れるダビデの星との対比である*4

さて、本作が三郎の小説だと考えたときに注目しなければならないのが、赤ん坊の“三朗君”の存在である。字は違うが読みは全く同じ「さぶろう」。赤ん坊の三朗とは、三郎の「生まれ変わりたい」という意思を表しているのではないだろうか。自らが今までとは違う新しい三郎として生まれ変わるつもりだという意思を、自らの小説の中に忍ばせたのだろう。馬鹿げた見立て殺人の果てに生まれた赤ん坊、三朗。それはつまり、三文ミステリ作家という過去(現在進行形か?)を持ちながらも希望を持って生まれ変わりたいという三郎の意思の表れである。その時、赤ん坊の名前は“三郎”ではなく三朗でなくてはならない。“三郎”という名前では三郎のままでしかない。三郎は既に生まれ変わったのではなく、これから生まれ変わりたいのだ。そのためには名前の違う別人の、しかも赤ん坊として描かれる必要があり、“ふりと演技”がここに導入されなければならない。つまり三郎は、“三朗のふり”をして“生まれ変わるという演技”を自らの小説でおこなったのだ*5


あとがき
とりあえず初期作品における“ふりと演技”についてはこんな感じです。以降はどんどんあからさまになっていって判りやすいのでやらないでおきます。舞城作品を取り巻く、“ふりと演技”と“親子関係”という2つのテーマが重要だと、個人的には感じています。こうなると、その2つのテーマをバラバラにせず絡み合わせて読み解くことも必要な気がしてきます。親子関係すら“ふりと演技”でしかないってことですかね。血よりも濃いロールプレイ*6。なんだか『みんな元気。』っぽい。でも『みんな元気。』よく判らないんですよね。読み直そうと思うことしきりなんですが、読解力だけじゃなくて時間もないんです。あと、舞城を読み解くにはやっぱりオースターが重要だと再認識して、オースターを真面目に読もうと思いました。とりあえず3部作の再読から。そんな時間ないんですけどね。あと『ドリル〜』の書評を楽しみにしているという方が何かの間違いでいらしたら、謝罪しておきます。先にこんなの書いてしまいました。もうしばらくお待ちを。何せ『ディスコ探偵』もまだ読了できていないもので。

*1:『俺は俺の記憶を頼りにクラリススターリングの台詞を言う』という記述はまさに演技を表している

*2:「四郎に指摘された結果、三郎が自分のことを小説に書いたのが本作」という設定なのではないだろうか

*3:『煙』の番場は四郎に「あんたがルンババ12?」と問われて、それを否定している。一方、本作の番場は屋根から飛び降りる前のシーンで自らルンババと称している

*4:さらにこれは、元々ドイツ人だと思われていた奈津川ハンスが実はユダヤ人だったということを虚構を用いて表している。つまり、奈津川家にとっての現実である『煙』ではユダヤ人の象徴を描くことでハンスの本当の人種を示し、奈津川家にとって虚構となる本作ではドイツ人を想起させるマークを描くことでそれが嘘だと示しているのだ

*5:さらに付け加えるなら、本作が奈津川サーガのサイドストーリーと誤認できるように書かれているのは、本作がサーガのふりをしているのだと言えなくもない

*6:ロールプレイで思い出したが、奈津川サーガにおけるロールプレイについてもいずれ書く予定でいる。1ヶ月近く舞城論を休載していたため、舞城ネタが溢れているのだ