東浩紀+いろんな人著『コンテンツの思想』読了(続き)

コンテンツの思想―マンガ・アニメ・ライトノベル

コンテンツの思想―マンガ・アニメ・ライトノベル

前回の続き、東浩紀が「キャラクターのレイヤーがあって物語のレイヤーがあるのではないか」と指摘した箇所について言及します。争点としたい箇所は以下の通り。

東「(中略)問題は固有名そのものなんです。いちど固有名が確立されてしまえば、あとは萌え要素はけっこう変更できるでしょう。『長門有希』という固有名がひとたび成立しさえすれば、それこそ、もし長門有希が江戸時代に行ったら、とかさまざまな二次創作が書けるわけです」
新城「けれど最初の『長門有希』を手に入れるためにはどうしたらよいか、と」
東「そう!それがわからない」
(P.191)

これにはとにかく引っかかりを覚える。俺は問いたい。その根源の長門有希こそ“物語”なのではないだろうか、と。この鼎談での議論の前提条件としてはポストモダンの創作手法に限定して、キャラクターありきで物語が成立する可能性を展開しているわけだけど、なんだか柔軟性を欠いてしまっているような気がする。俺としては、キャラクターの根源はやはり物語で、物語の要請に沿ってキャラクターは生まれてくるのではないかと思う。

乱暴にまとめるけれど、キャラクターの作り方とは2パターンで語ることができるはず。まず、小説を書くときに「こういうキャラクターを出そう」と最初は考えない場合。このパターンでキャラクターを生成するときは、物語に必要となる役割を登場人物に振っていく。たとえば「主人公に血を流させるためには物語が彼にダメ出しをする必要がある。そのため、物語は主人公の対立項となる人物を要請する。そのとき、その人物は主人公とは異なる価値観を持っていなければならない。そこでその人物を主人公とは異なる世代や性別、職業などに設定する…」という感じでブラッシュアップしていくと主人公の対概念としての両親や教師などの人物造形が生まれるだろう。このロールを装飾していくことでキャラクターが生まれる。必要に応じて萌え要素をそこに加えてもいいだろう。このパターンでは、物語ありきでキャラクターが生まれるという流れが見てとれる。

個人的な考えだが、自然主義的な“私”を中心とした物語を描くためには多かれ少なかれこのパターンが用いられるのではないかと思う。それは、この手法が“私”へのアプローチに適していると実感できるからだ。“私”というキャラクターを中心軸として、彼/彼女とは区別された“他者”を登場させる(他者を世界と置き換えてもいいかもしれない)。この対比によって、“私”はより明確になり、私と世界の間の境界線を強固なものにすることができる。また、キャラクターありきで始まる創作ではないという点でも、自然主義的なアプローチだと言えるだろう。

話を元のラインに戻そう。

もうひとつのパターンは、小説を書くとき「こういうキャラクターを出そう」と最初に考える場合。さっきの逆パターンだ。このときの“こういうキャラクター”とは要素の集合体、つまり先行作品によって既に確立している要素をデータベースから引用して組み合わせたものだ。たとえば「赤い瞳のアルビノで、自分のクールなイメージを頑張ってキープしようとするけれど実はドジっ娘。何か失敗すると必ず赤面、かわいらしくはにかんで『見た?』と上目遣いで言いながら自分の失敗を目撃した相手をナイフや銃火器でデリートする、漆黒のメイド服に身を包んだツインテールの幼馴染」というような、現実や自然主義とは切り離されたキャラクターの組み立て方だ。この場合は、これから書こうとしている物語とは関係なく、自分の好みの萌え要素を引用してキャラクターを構築していくことになる。作品ありきで登場人物を規定するのではなく、自分が書きたいキャラクターを書いて、そのキャラクターのための物語を構築する。つまりここには、東浩紀が指摘した「キャラクターのレイヤーがあって物語のレイヤーがある」という階層構造が見られる。

このパターンでは、データベースから要素を引用して二次創作的にキャラクターを成立させているので、物語はキャラクターの発生には関与していないのではないかと指摘する向きもあるだろう。だが、そもそも要素とは物語の類型的な最小単位である。つまり要素の引用とは、過去の物語の集積=データベースからの引用だと言える。俗にキャラクター小説やライトノベルと呼ばれる創作手法は、この流れでキャラクターが作られていることが多いという点は詳しく説明するまでもないだろうが、特に『涼宮ハルヒ』シリーズは、同作品のメタライトノベル的振る舞いからもその傾向が強いと言える。

ここで一度、今まで見てきたことをまとめよう。

最初のパターンでは物語自体が登場人物となるべきキャラクターを生成するものであり、2つ目のパターンでは先行作品のデータベース=過去の物語が新たな物語のキャラクターを生成しているということになる。そして前者は自然主義的なリアリズム、後者はまんが・アニメ的リアリズムに根差しているとした*1。ここで主張したかったことは、物語の構造上の要請に従っているにせよ、過去の物語(つまりデータベース)を参照しているにせよ、キャラクターとは物語によって成立しているという点だ。

従って、先の東浩紀の発言―-“最初の長門有希”の手に入れ方がわからない--は『動物化するポストモダン』での彼の主張とはつながっていないように聞こえる。同書では、キャラクターは萌え要素のデータベースから構成要素を引用して構築されると述べていた。ならば“最初の長門有希”もここから発生していると考えるのが筋だろう。

つまり、東浩紀が本来語るべき主張は「過去の物語の集積のレイヤー(=データベース)があって、その上にキャラクターのレイヤーがあって、さらに物語のレイヤーが被さっている」という状態なのではないかということだ。そして、物語のレイヤーは過去の物語のレイヤーへと回帰していく。キャラクターを生成するこの循環運動こそ、データベース消費という概念だろう。

繰り返しになるが、東浩紀の“最初の長門有希”発言は『動ポモ』と地続きであるようには聞こえない。そこには断絶があって筆者の主張が変わっているように見えるし、だとすればその変遷についてはあまりにも説明が足りないということになる。

しかし忘れてはいけないが、『コンテンツの思想』は東浩紀個人の純然たる批評的作品ではなく、論客との対談集だ。オリジナルに忠実であろうとして言葉が不足しているだけという可能性もあるだろうし、逆にカットアンドペーストされた結果、文脈から切り離されて本来とは意味が変わってしまった箇所もあるかもしれない。

そう考えると、もしかしたら“最初の長門有希”とは特定の固有名の生み出し方のことではなく、データベース消費が誕生した瞬間の、ビッグバンのような定点のことを言っているのかもしれない。あるいは、我われの視点において大きな物語とデータベース消費のパワーバランスが入れ代わった瞬間はいつなのかということを指しているのかもしれない。だとしたら、東浩紀の疑問はおもしろい。

個人的には、彼が提唱したデータベース消費こそ、ポストモダンを生きる我われにとっての大きな物語なのではないかと考えている。なぜなら自覚的であるかどうかを問わず、つまりデータベース消費という言葉や概念を知らずとも、オタクたちはデータベース消費的な振る舞いを実践しているからだ。そういう意味でも、キャラクターの生成は“物語”に依拠しているのではないかと思う。

この観点で話を進めると、「小説には言葉の世界しかなくて、虚構の固有名しかないのに、それが固有名としての力をもっている。そこに謎があるわけです」(P.193)という東浩紀の疑問をクリアに氷解させられるような気がしている。すなわち、データベース消費という概念がオタクたちの消費規則となるくらいに浸透して共有され、そのようなオタク的社会が構築されたがゆえに、現代を生きる我われにとっては、要素の集合に過ぎない虚構が固有名としての力をもっているように感じられてしまうのだ、と。これを東浩紀ジャーゴンで語るなら、“半透明性”が虚構の固有名の根拠となっているということだ。*2

ということで結論をまとめると、「ここら辺のことを本人は実際どう思ってるんだろう?」ということです。長々と書いたけれど、矛盾を追及するのが目的ではなく、俺としては単にそれが気になっているだけの話です。これらの疑問については『コンテンツの思想』刊行記念の、東浩紀×笠井潔×海猫沢めろん鼎談講演会『新本格からセカイ系へ、そしてゲーム的実存へ!?』で質疑応答を受け付けてくれるようなら直接突っ込んでこようと思います。ウソです。わかんない。気が向いたらね。

*1:この2つのパターンの性質を両方備えたものが、東浩紀の言う“半透明性”の条件なのではないかと思う。セカイ系的な“荒唐無稽さ”と、“私”の問題を備えているという点で、ここではそのように指摘している。従ってセカイ系の作品群とは自然主義的な私の問題系から荒唐無稽な想像力への過渡期に生まれた中間地点ということになるだろう。そして、“おもしろい”か“つまらない”かという快楽原則に対する依存傾向が強い、荒唐無稽な想像力の作品群へと移行しているのが現在の潮流だろう

*2:ただし、これは論理的というには程遠く、個人的な実感、つまりオタクコンテンツにじかに触れたり消費したりしているときの皮膚感に近いと自覚している。だが、論理的でないというだけで退けることはできないだろう。実体験にもとづくものである以上、この感覚がリアリティに根差していることを否定できない。いずれこの直感は言語化しなければならないと思っている