阿部和重×法月綸太郎×東浩紀鼎談『形式と分身とメタフィクション 〜記号化されたリアル〜』前編

波状言論収録の豪華鼎談。前半部分は批評家・東浩紀による作家・阿部和重の解体作業というか、阿部と法月綸太郎(=新本格)という異分野の作家を時代性に基づいてインテグレーションするという試み。個人的な感想としても、以前、阿部和重を読んだ際に「この作家は形式に執着でもあるのだろうか?」と思ったという経緯*1があるため、実に興味深い内容だった。以下、興味深い箇所について私見を。

法月:前に東さんには言ったと思うんですが、中学入ったくらいのときに『人間失格』(新潮文庫、1985年)という本を読んで、「ここには俺のことが書いてある」とか思ったんです。で、わあっと盛り上がった後に、ふと気づくんですが、要は、みんなそう思っちゃうから、『人間失格』という本は名作として語り継がれているわけですよね。「これは俺のために書かれた」という、あのとき感じたものっていうのは、それまでの何十年間、多くの人々が同じように感じてきたことであった、と。そう気づくとすごく気持ちが悪くなってしまったんです。

1人の作家が描いた同時代性や普遍の摂理を、過剰な自意識によって我が事のように感じ取るという錯覚は、つまりシンパシーと捉えることができる。こういったシンパシーの機能を自意識の回収と仮定した場合、現在、こういった自意識の集積磁場となっているのがファウストなのではないかと推測できる。
太田克史は東京以外を出身地とする作家に拘っており*2ファウストを「地方」の読者にこそ読んで欲しいと彼は明言している。そしてこれは実際にその通りになっているのではないだろうか。各地でのファウスト売り上げ部数を比較して、比率的に地方で売れているという確証を得ているわけではない。しかし、発行部数20万部オーバーという事実を、東京への欲望を熱量としていた佐藤友哉滝本竜彦らへの共鳴と見ることもできるだろう。即ち、ファウストのレギュラー陣である諸作家は概ね「地方」出身であり、彼らは少なからず地方と東京を作品のテーマに交えているという点と、彼らが20万部という数字で支持されているという事実から、彼らのテーマに対して読者のシンパシーが大きく働いているのではないかということだ。
なお、上記ではファウストを“自意識のゴミ捨て場”のように表現してしまっている箇所が一部あるが、個人的にファウストに嫌悪感や悪意があるわけではないということを補足しておく。

東:だから笠井さんが言うところは正しくて、新本格の精神はモダニズムに近いわけですよね。内容はない、形式だけがあると。

形式主義では内容が伴わなくなり、内容に充実をみると形式が衰える。新本格はそれなりに読んでいたにも関わらず、こういった問題は個人的にはほとんど考えてこなかったので、実に興味深かった。そのジャンルに自覚的であるフィクション、つまりメタフィクションを導入すればするほど、物語としての充実からは遠ざかり、逆に作品内に大きな物語を再構築しようとする過程では、その物語がそのジャンルでなければならないという必然性が薄れていく反比例の構図。手近な作品で分布図を描いてみるのも面白いかもしれない。

東:垂直のゲーデル的な問題系と、水平の分身的な問題系って、何か根本的なところで対立していると前々から思っているんです。法月さんも阿部さんも『存在論的、郵便的』(新潮社、1998年)を読んでくれているので付け加えますと、それは、僕があの本で後期デリダが云々と言ってた問題意識と関係しています。垂直のメタゲームをいくら繰り返しても、僕たちは否定神学的にしか行き着かない。それに対して、郵便的に横にズレていく、みたいな戦略がどうしても重要になる。
 そういうふうに考えると、お二人の小説はきわめて哲学的に読める。最初は垂直軸の問題から始まるんだけど、実際に書くと水平軸の分身の問題がいっぱい作品の中に出てくる。そのことが物語的なダイナミズムを支えている。
法月:僕は、ある時期から、メタレベルの垂直軸の問題って、すごく青年期に特有の、ロマンティシズムと切り離せない考え方だと思うようになったんです。で、分身の話が出てくるのは、要はそのロマンティシズムが必然的に脱臼されてしまうときのことだと思うんです。この私と世界の話だったはずなのが、この私と交換可能な別な人間がいるってことで、脱臼されてしまう。

この箇所はエントリの一番初めに引用した箇所と本質的には同じことが書かれている。つまり、『“これは俺のために書かれた”という感覚は、多くの人々が同じように感じたことだった』という認識。その認識によって脱臼されてしまった感情が向かう物語を、分身あるいは水平軸といっている。垂直軸が脱臼して水平軸になる(社会性を得る)ということは、垂直軸の物語をセカイ系と読み替えることも可能であるように見える。しかし、セカイ系とは“きみとぼく”が世界と直結するからこそセカイ系なのである。その意味においては決して脱臼することのない物語であり、水平軸を必要としない物語だということができる。
すると、セカイ系を挫折ではなく脱臼させるような試みとは一体どのようなものだろう?いずれ、この点について少し考えてみるのも面白いかもしれない。

以上、前編の感想(後編に続く)

*1:拙著、インディヴィジュアル・プロジェクション考察:“フリオの歌を聴け”を参照のこと。http://d.hatena.ne.jp/nuff-kie/20050703/p2

*2:拘っている、というのも微妙に違うような気がするが、彼自身の出身地とも合わせて、上京というテーマには明確な拘りがあるようだし、それはファウストvol.4にて実施された文芸合宿にも表れていた