最近入手したディスク

  • Sean Kingston / Sean Kingston

Sean Kingston

Sean Kingston


"Beautiful Girls"のクリップを見て、"Stand By Me"かよこりゃやばい!と思って買った。やばい。

Back to Black

Back to Black


"Rehab"もいいんだけど、日本版ボーナストラックであるところのThe Specialsのカヴァーがカッコいい。

Third Time’s A Charm

Third Time’s A Charm

クレジットを見るに今回はコリンもギターとしてレコーディングに参加できているようです。よかったね。

文脈だけじゃないだろうという話

この前の学問バトンのエントリで言葉が足りなかったので若干補足。あのエントリではThe Libertinesの”The Boy Looked At Johnny”を引用したわけだけど、あの曲のバックグラウンドを説明しておかなくてはならなかったように思う。

2000年前後、ロックのメインストリームの一端は俗に言うミクスチャーに、それもアメリカのミクスチャーに支配されていた。イギリスですらそれは例外じゃなかった。英国の伝統的なサウンドは誰にも顧みられていなかった。そこに登場したのがThe Strokes。彼らは現代において英国的でオーセンティックなロックンロールを鳴らし、そこにはまだ魔法が宿り続けているということを示してみせた。

The Strokesはシーンの扉をこじ開けた。英国からミクスチャーを駆逐した。そして多くのロックンロールバンドがそれに追随した。その中の1つがThe Libertines。もちろんThe Libertinesの面々もThe Strokesを好いてはいるけれど、彼らは自分たちの手で英国に英国らしさを取り戻そうとしたかったはずだ。たぶん、根っこの部分ではThe Strokesがもたらしたこの状況があまりおもしろくなかったに違いないのだ。なぜならThe Strokesはニューヨークのバンドであり、けっきょく英国のシーンはアメリカの支配から脱却できていないようなものだったからだ。

だからThe Libertinesは”The Boy Looked At Johnny”でこう歌ったのだ。「確かに夜のニューヨークシティはすごく綺麗だけど、いい加減ロンドンが恋しくならないか?」。ロックンロールを自分たちの手に取り戻すために。

Yes, New York City is very pretty in the night time,
but oh don’t you miss Soho?
Everybody goes...

でもさ、そんなエクスキューズを知らなくてもこの曲は充分にカッコいいし、楽しめるよね。

たとえばThe Clashはロックに政治的思想を持ちこんだから素晴らしいのだろうか?それは完璧な誤りだ。彼らはロックミュージシャンなのであって政治家ではない。The Clashが素晴らしいのは音楽それ自体においてであり、政治云々はあとから付随してきた、ただの関連情報だ。本質を履き違えてはいけない。

だから俺は文体に拘りたいと思っている。それこそが余計な文脈を削ぎ落とした結果、最後に残るものだと思うから。

武梨えり著『かんなぎ』(1)〜(3)

かんなぎ 1 (REX COMICS)
かんなぎ 2 (REX COMICS)
かんなぎ (3) (REX COMICS)
押しかけ女房という名の非日常。こういう、なんか起きているようで結局なんにも起きていないという、つまり非日常が日常と地続きであるにも関わらず、それでも平凡な日常が続いていくというストーリーはけっこう好きな手法。ドラえもんも同じだよね。ひみつ道具のび太が誤用して騒動が起きるけど、最終的には揺り戻しの果てに平凡な日常として回収されてしまう。

でも。この物語はこのまま日常を繰り返し続けるとは思えないけどね。たぶんこの主人公は近々こちら側かあちら側か、日常か非日常か、その選択を求められるのではないだろうかと思う。ちょうど『涼宮ハルヒの消失』のキョンみたいに。

で、1巻は武内崇が、2巻は竜騎士07が、3巻は樋上いたるがイラストで参加しているわけですが。ゲスト陣の作風も2巻で方向性が定まったらしく、3巻は大笑いしました。そういう意味でも、ノベルゲームの文脈が分かる人向けだなぁこの作品、という感じです。

ほとんどマンガは読まないんだけど、それでも最近読んだ中では一番好き。

ノスタルジアはどこからやってくるのか

過去と現在におけるギャップ。あるいはホームタウンと現在地の地理的・文化的ギャップ。

で、俺がどこにノスタルジアを覚えているのかというと、過去と現在の俺自身のギャップにおいて。俺は変わった。軸の部分はあんまり変わってないっぽいけど、それでも変わった。良い方に向かっていると思いたい。そして未来においても変わっていたい。ただ、過去と現在の間には大きな転換点があった。その結果、容易に変わることができたのかもしれない。だから未来において変わろうとすることは、過去に変わろうとした経験よりも難しいものになるのかもしれない。

ならばこれからの俺はもうちょっと動かないとダメだ。時間的にも空間的にも。そうじゃないと何も変わらない気がする。今から変わろうとしなければ未来において何も変わるわけがない。そう考えると、変わろうとする強い意志は未来においてノスタルジアを呼び寄せることになるのかもしれないと思う。ちょうど今の俺が数年前の俺を見て、そこに感じているような類のノスタルジアを。

なんでこんな、多くの人にとって意味が判らないだろう話をしてるのかと言うと久しぶりにものすごく感情的になっているからです。この心の振れ幅を文字使ってパッケージしておきたいね。

学問じゃないバトン(ドラじゃないえもん風に)

id:SuzuTamakiさんによる学問バトンのエントリのコメント欄、id:sakstyleさんとid:SuzuTamakiさんのやりとりにてid:nuff-kieの名前が挙げられているようです。

sakstyle 『実は、nuff-kieさんに回して欲しかったなんて内緒です。』 (2007/07/30 18:02)
SuzuTamaki 『わ、わあ!
確かに興味深いかもです……。
もしご覧になっておりましたら(ぇ』 (2007/07/30 22:19)

失礼ながらまったく気付いていませんでした。認識したの昨日です。id:nuff-kieのブログ巡回術はLDR依存であり、はてなアンテナ経由でブラウザ使ってアクセス…というのは実際のところ滅多にやりません。というわけでLDRだと全文配信のブログのコメント欄とか視野に入ってこないんだなぁと今さらながら痛感した次第。LDRでブログのコメント欄を見られるGreasemonkeyスクリプトとかありませんかね。なんて、そんなことはどうでもいいのですが、とりあえずこのままノーリアクションでは男が廃るというものです。なのでやります。

このバトン、学問バトンという名称ではありますが回答しているみなさんのエントリ(のごく一部)を拝見するに、別に学問について語ることを主眼としているわけではなく、本質はブログとブログの中の人のあいだに横たわる回路を再強化してあげる作業のようです。つまり、そのブログの文脈をほんの少し本人に語ってもらうもの。名称からアカデミックな雰囲気がして身構えそうになりますが、実質他のバトンとあんまり変わりませんね。

ならば俺もそれに倣ってこのブログの在り方と俺について、学問云々を抜きにしてちょっと書いてみましょう。つまり正直に俺の専攻とか書いても意味がないってことですよ、このブログ的には。

-あなたの専門・専攻・得意教科は?
文脈導入型の物語解体と再構築。

-あなたは、どのようなテーマに関心がありますか?
これからの物語構築と物語消費。

-あなたはなぜその専門・分野を選んだのですか?
俺が選んだんじゃなくて向こうが俺を選んだ、ただそれだけさ。


なんて無意味にロックスター調。

-あなたが最も影響を受けた人と、その理由を挙げてください(複数人可能)。

以前も書いたように、俺が物語に対して批評的な視線を持つようになった契機はドストエフスキーにあるわけですが、その幅を広げて見せてくれたのが東浩紀氏、という感じです。

もともと俺は人文とかオタクとかサブカル文脈ではなくて単にサッカーとロックンロールが好きな人なのです。なので俺が東浩紀という名前を知ったのは相当に遅くてファウストvol.1からで、それは俺の舞城好きに起因します。彼の『ドリルホール・イン・マイ・ブレイン』を読みたくてファウストを買うようになって、ついでに『メタリアル・フィクションの誕生』を目の当たりにする。そこで初めて東先生の名前を知った…というかやっぱり舞城目当てだったので『メタリアル〜』も当初読んでいなかったんだけど。

まぁ、いずれにせよこのブログにとって影響度の高い方です。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んでなかったら、こうしてブログで勝手なことを書き散らすこともなかったでしょう。

すべての発端。でも、なんでそんなに舞城が好きなのかは未だに分かっていないので、今後このブログで追求していきたいポイント。

-あなたが影響を受けた本とその理由を、何冊か挙げてみてください。

Up the Bracket

Up the Bracket

ポップミュージックだけじゃない、ロックンロールにだって3分間の魔法が宿っているんだということをゼロ年代に証明した素晴らしい作品。もちろん本じゃないけどそれがどうした。この素晴らしい曲の前にはそんなちっぽけな疑問なんて無効化されてしまうのだ。それこそロックンロールが持っている魔法だよ。

Yes, New York City is very pretty in the night time,
but oh don’t you miss Soho?
Everybody goes...

つまりそれってテーマだとかリリックだとか演奏者の人格だとか振る舞いだとか思想だとか、音楽以外の周辺事情をすべて吹き飛ばして純粋に音楽だけを伝えて踊らせてしまうものに他ならない。それを物語に当てはめると、文体こそが文学にとっての魔法じゃないかと思うんだ。

幼年期の俺を形成したのはドラえもん。俺を夢想家にしたのは間違いなくドラえもん。ありがとうドラえもん。夢想家になりたい奴は今からでも遅くないから読んどけ。♪あんなこといいな、できたらいいな…。

-入門者に、その分野の「入門書」として一冊お勧めするとしたら何を薦めますか?

文学環境論集 東浩紀コレクションL

文学環境論集 東浩紀コレクションL

東浩紀氏の『文学環境論集』。前述の『メタリアル・フィクションの誕生』が収録されているのでお勧めします。

-あなたが考える、その専門・分野の「武器」は何ですか?
文体。文体に自覚的であるかどうかは重要。

-他人に「君、大学では何を研究していたの?」等と聞かれた場合、なんと答えるようにしていますか?
正直に答えます。

-あなたがその専門・分野に関して、一般の方に知ってもらいたいところは何ですか?
特になし。

-あなたがその専門・分野に今後期待することはなんですか? あるいはあなたがその分野で達成したい目標はなんですか?
素敵な嘘を吐いて、みんなを楽しい気分にさせられたらいいな。

-次に回す人たち
誰にもあげません。勝手に持って行ったりしないようにね。

宇野常寛に感じていたゼロ年代と90年代における切断線の正体

例によって第4回は未読なのだけれど、ここで一度、このブログにおける『ゼロ年代の想像力』関連エントリとその所感をまとめておこうと思う。今回、新たな批評的視線は特に用意していない。この内容は本来であれば前回のエントリに含めてしまっても良かったのだが、状況を整理するためにこのような形式としている。

このブログでは継続的に『ゼロ年代の想像力』に言及して宇野常寛氏に視線を当てていたわけだけれども、それを通じて宇野氏にはいくつかの違和感を覚えていた。そのうちのひとつは宇野氏が東氏をセカイ系の亡者と呼んでいることであり、もうひとつは宇野氏が90年代の想像力とゼロ年代の想像力を切断して捉えている(ように感じられる)ことだった。前者は以下1のエントリで指摘しており、後者については2のエントリで簡単に触れていた。

  1. 『ゼロ年代の想像力』第2回で気になった宇野常寛と東浩紀のズレ
  2. 『ゼロ年代の想像力』を読んだ僕たちにできること、あるいはできないこと

正直なところ2に関しては、当時は直感と印象に頼るのみで、宇野氏による90年代とゼロ年代の切断はどこにあるのかといったことを実際のところあまり真剣に検討していなかった。しかし、上記の1と以下のエントリを書いたことによって何となくヒントを得られたように思う。(エントリの時系列は2が最も早期)

自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム – 宇野常寛が見落としているもの

ここで触れたように、宇野氏は90年代とゼロ年代のいずれにおいても二次創作とそれに関連した想像力を検討の対象としていない。

二次創作に限らず、「まんが・アニメ的リアリズム」に基づいた作品は虚構をルーツとしている以上、データベース消費的に生み出されることもある。新井素子に端を発する「まんが・アニメ的リアリズム」では、先行作品から生成された萌え属性や物語の最小単位をモジュールとして組み合わせて別の物語を再構築するといった手法を積極的に採用してきたといえるだろう。たとえば以下のエントリのように。

僕が考えたドラえもんの二次創作

このように、先行作品(原作、二次創作etc.)へのリバースエンジニアリングと、そこから得られた想像力のモジュールを取捨選択の上で再構築することによって次の作品が生まれているという光景は、「まんが・アニメ的リアリズム」、ひいてはオタク系文化では日常的なものとなっている。そして、そのような二次創作的な想像力の加速が見られたのが90年代だというのが個人的な実感だ。

例えば90年代のひとつの現象だった『新世紀エヴァンゲリオン』は、物語のラストで主人公たちがロボットに乗って戦うのではなく、平穏な日常を送るという別の可能性の世界を見せた("学園エヴァ")。つまり、『エヴァ』においてはオリジナルの段階から既に二次創作が取り込まれていたということになる。この作品は何も心理学や社会学といった90年代を象徴するモチーフだけで構築されていたわけではない。確かに宇野氏が指摘するように、大きな物語の喪失やカルト思想などと同時代性を共有していたのだろうが、それはこの作品の側面のひとつであってすべてではない。そして逆もまた然り、だ。

だから、オタク系文化では虚構(二次創作的な想像力)あるいは現実(現実そのもの、同時代性)のどちらかだけで年代記のようなものをまとめようとしても、どこかで忘れ去られてしまう想像力が出てくるのではないかと思う。そして宇野氏は現実のみでそれを行おうとしているように思える。この断絶こそ、宇野氏がid:nuff-kieに、90年代の想像力とゼロ年代の想像力を切断しているように感じさせたものの正体だ。(つまり上記の1と2で感じていた違和感の正体は同じものだったということになる)

例え宇野氏の言うように90年代がセカイ系の時代でゼロ年代決断主義の時代だとしても、90年代の作品とゼロ年代の作品の間にまったく関連性がないとは言えないだろう。そこにはかたちを変えながら連綿と受け継がれていく想像力が何かしら流れているのではないだろうか。もはや萌え属性のような細分化されたコードしかなかったとしても。そしてその場合には、データベース消費やゲーム的リアリズムといった二次創作的な消費環境に言及している東氏の批評を参照するほうが適しているはずだ。

現時点での『ゼロ年代の想像力』への個人的な印象をまとめると上記のようになる。結論としては、宇野氏が『ゼロ年代の想像力』でやっているようなことをやるためには、虚構と現実それぞれを考慮していく必要があるのではないかということを指摘しているわけである。まだ連載途中である以上、もしかしたら今後はその流れになるのかもしれない。だから早々に結論を突きつけるのではなくて長い目で見ていかなくてはいけないのだろうが、ひとまずは第3回までを読んだ印象でいちど区切りをつけたいと思う。