私的舞城論の終了と舞城王太郎への批評再開のお知らせ
このブログ開設当初のメインコンテンツだった同カテゴリをクローズすることにしました(ログ自体は残す)。長らく更新していなかった以上、このまま放置しておくのも収まりが悪いので今回このような発表をしているわけだけど、まぁここまで読んで頂いてお分かりでしょうがこれって基本的には対外的なものではなくて。
俺はまだ舞城王太郎について語る言葉はまだ失ってない、けどどうにもそんな気分にはなれない。などという俺の気持ちを刷新することが主な目的です。2年と数ヶ月の空白期間を経ていま再び舞城を語ろうと思い直すのは、ひとえに舞城が批評的に忘れ去られようとしているように思えて仕方ないからこそ。
特に、『ドリルホール・イン・マイ・ブレイン』については語らなければならないという思いを思うだけでだらだらとここまできてしまったので、真っ先に取り組みたい所存。あと、『阿修羅ガール』と『川を泳いで渡る蛇』と『九十九十九』にも何か仕掛けたいところ。
とにかく、あのカテゴリは俺にとっては過去形の舞城みたいなものなのだ(第4回以外は)。だからこそそれは閉じてしまって、現在の俺の言葉で改めて舞城を語りたい。そんな欲望をいまだに持ててしまうくらい、やっぱ俺、舞城が大好きなんだよ、小説を書いてる舞城が。そして何よりも俺を奮い立たせるのは、既に発売中の『メフィスト』2007年5月号に奈津川サーガ最新作の続報が掲載されているという知らせに他ならない。
復活の狼煙は上がった。あとは立ち上がるだけだ。
僕が考えたドラえもんの二次創作
というわけで、「僕が考えたコミケ」の続きです。俺だったらこのコミケに何を持ち込むのか、それを追いかけてみました。
- アウトライン
ドラえもんの原作でがまん大会をしていた回がある。ここで登場するひみつ道具はエスキモー・エキスだ(てんとう虫コミックス34巻)。俺が描く物語はこのパロディ。がまん大会ではなく、がまん汁大会を開催します。たぶんこの時点で半分くらいの読者が脱落したのではないかと思いますが、ドント・ストップ・ザ・ミュージック、物語は続きます。
がまん汁大会とはその名の通り、がまん汁を漏らした奴はすべて敗者、最後まで残っていた奴が勝者という過酷なツール・ド・がまん汁。大会レギュレーションは、しずかちゃんに扇情的なポーズを取らせて、目をそらすことなくみんなで彼女の裸体に見入る。ただそれだけ。
- ストーリー
大会の結果、のび太が一番に脱落してジャイアンが勝ち残る。勝者ジャイアンが優勝商品であるしずかちゃんに挿入する権利を得る。一方、のび太はしずかちゃんにありつけないので代わりにドラえもんに泣きつく。心優しきドラえもんはフエルミラーでしずかちゃんを量産する。のび太の目の前に立ったしずかちゃんは言う。わたしはたぶん3人目だから、と。
のび太としずかちゃんはここではない2人だけの世界にたどり着く。
- 解説
マンガとして制作します。俺は原作のみ、マンガ化は誰かに依頼。つまりエロ+マンガ+二次創作という三種の神器(たぶん)で攻める作品。あとがまん汁大会とは決断主義的なバトルロワイヤルであり、その後の"きみとぼく"な展開はセカイ系を象徴します。これで東浩紀氏と宇野常寛氏を2人とも満足させられるのではないかと思います。基本的には万人受けするように分かりやすい内容でなければなりません。死角がない上に豪華、というのが狙いたいコンセプト。まぁ、ここまでは表層的な部分です。
肝心の中身だけど、この作品では、スーパーフラットに消費される二次元美少女とオタクの関係性を批評的に描くことが目的です。そこで、しずかちゃんはフエルミラーによって量産され、しかも決してしずかちゃんとして描かれないことになります。彼女はドラえもんの絵柄から大きく乖離して、萌えを象徴するような二次元美少女として描かれる。必要ならネコ耳とかつけてもいい。衣装はメイド服とかだって構わない。とにかく萌えの象徴であることが重要なわけです。彼女はしずかちゃんと呼ばれつつもしずかちゃんではない存在であり、かつしずかちゃんとして消費されるというメタしずかちゃんになる。そのために、のび太はジャイアンに襲われているしずかちゃんを助けるのではなく、彼女をコピーアンドペーストしたしずかちゃんの代替品を手に入れることで満足してしまうのです(大きな物語の喪失)。
加えてドラえもんもドラえもんとして描かれません。ドラえもんのグラフィックはASIMOでいきます。これは単純に、ドラえもんの二次創作というのが危険領域のような気がするから保険をかけて別のロボットにしておこうということです。俺だって訴えられるのは嫌だ*1。
ASIMOはネコ型ロボットじゃないって?いいんだよ、必要ならネコ耳でもつけておけば!
*1:Hondaから訴えられる可能性はこの際、度外視します
神保町にて
昨日、三省堂書店にて伊藤計劃氏と円城塔氏のトークショーに参加してきました。SF文脈が全然判らないのでなんで周りのみんなが笑ってるのか分からないというシーンがたくさんあったけど、いくつかおもしろい話が聞けてよかった。伊藤氏はブロガーだなぁという印象。円城氏は、なんか独特な感じがしました。実は『虐殺器官』を読みきれずに*1参加していたわけだけれどそれほどのネタバレもなく、というかあんまり深い話にはならなくてホッとしたというか残念というか。もう少し小説作法的な小話が聞けたら嬉しかった…とは思うけどSFマガジンなイベントだったのでやむなしでしょうか。
しかしその『虐殺器官』が20日程度という結構なハイペースで書かれたとは驚いた。文章書くのが速い人は羨ましいという話を一緒に行ったid:hey11popさんとスマトラカレー食いつつ話した。
オフラインで会ったのは2度目だけど、id:hey11popさんとはまたもや文体と身体性の話をしたり、舞城がウェブ論壇から忘れ去られようとしているという事態を嘆くわけでもなく淡々と話したり、ドラえもんの話をしたり、テキストサイトの話やブログの話や小説の話をしたりするという濃密な時間を過ごしてきた。みなさんもあれです、気になるブロガーがいたら積極的に会ってみるのがいいです。
で、その帰り道で戯れに話した与太話が以下のエントリ。発端はちょっと前に書いた『僕が考えたコミケ』というエントリ*2。その要旨をまとめると、俺はコミケには行ったことないけどこんなのなら行ってみたいねというもの。そこは現金売買が禁止なので創作物同士での物々交換をするというもう1つのコミケ。もしそんなコミケに俺が持ち込みをするならどんな創作だろうということで考えた。
id:hey11popさんには、社交辞令かもしれないけどわりと好評だったので公開してしまいます。ホントひどい話だけどね。このブログ史上、屈指の劣悪エントリだな、間違いなく。
自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム – 宇野常寛が見落としているもの
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- 90年代前半までを支配したジャンプ的なトーナメントシステムとは、社会が用意したルールの中で戦うことを意味している(筆者註:これは大きな物語を指していると思われる)
- そのシステムの崩壊は、震災+地下鉄サリン事件+エヴァが象徴的な1995年に起こった。同年、ジャンプの人気を支えていた『ドラゴンボール』と『幽遊白書』の連載が終了、トーナメントシステムの時代が終わりに向かう。ここから時代は決断主義/サヴァイブ感の準備期間に入る
- 9.11、ネオ・リベラリズムの登場。引きこもっていては殺されてしまう世界の到来によって、ゼロ年代的なサヴァイブ感を備えた作品群が登場した
- そこではトーナメントシステム(大きな物語)以降のバトルロワイヤル的な世界が形成される。各プレイヤーが信じたいもの(正義)を信じて、生き残るために戦う
- 碇シンジ(セカイ系)では夜神月(決断主義)を止められない。というか夜神月を倒してもバトルロワイヤルは止まらない
東浩紀は『動物化するポストモダン』では90年代が抱える時代性を検討しつつ二次創作的な消費環境について追及していた。続く『ゲーム的リアリズムの誕生』では時代性には触れずに、消費環境だけにフォーカスを当ててより深い検討を行ってた。これに対して、宇野常寛が焦点を当てているのはその時代がどのように想像力を駆動しているかという点だ。彼らが重点的に検討しているのはそれぞれ消費環境と時代性であり、第2回を読んだときにこのズレを指摘したわけだけれど、この論調は第3回でも変わらなかった。
宇野は、彼が『ゼロ年代の想像力』で挙げた作品がすべて「自然主義的リアリズム」のみで支えられていると認識をしているように見える。だからこそ、彼は1995年/引きこもり/9.11といった現実だけを同時代のマンガやアニメ、ゲームなどに結び付けて、消費環境について検討していないのではないだろうか。
ここで言う「自然主義的リアリズム」とは現実を写生するものだ。例えば純文学のフィールドを想像してもらえれば分かると思う。介護やいじめや自殺や虐待などが社会的なトピックとして持ち上がったときにそれをテーマにした虚構/創作が登場するのは、この「自然主義的リアリズム」に根差しているからだと言えるだろう。
これに対して、虚構を写生する虚構を「まんが・アニメ的リアリズム」であると大塚英志は定義していた。この「まんが・アニメ的リアリズム」とは作家・新井素子が1970年代後半にデビューした直後の言葉--ルパン三世の活字版を書きたかった--から導き出されている。大塚に従えば「まんが・アニメ的リアリズム」は現実の描写とは無縁で、マンガやアニメやゲームなど架空の想像力に根差して作られた作品ということになる。従来の「自然主義的リアリズム」では現実の写生のみによって創作活動が行われていたが、新井素子はその領域から軽々と飛び出したとして大塚はこれを大きく評価している。
このように、出自それ自体が虚構である「まんが・アニメ的リアリズム」の作品は虚構の虚構ということになる。つまり虚構に根差しているがゆえにオリジナルの段階で既に二次創作的だと言うこともできるだろう。だからこそ、「まんが・アニメ的リアリズム」に根差した想像力は二次創作の素材として消費されることを許容するのではないだろうか。二次創作もまた、虚構の虚構、つまり「まんが・アニメ的リアリズム」に根差していると言えるからだ。
新井素子以降、彼女と同種の想像力で創られた物語が語られるようになり、それが「まんが・アニメ的リアリズム」と呼ばれる作品群になる。これが二次創作空間の成熟を準備したのではないかと推測できる。
そして90年代後半の『エヴァンゲリオン』以降から原作が二次創作の素材となり、それが次の原作を生むための素材になるという循環がさらに加速していく。二次創作によって発生してしまうスーパーフラットなマルチエンドを単一の作品へと落とし込んでいく想像力を、東浩紀は「ゲーム的リアリズム」であると定義していた*1。
このように「まんが・アニメ的リアリズム」は虚構についての虚構を定義している。それゆえに、同じく虚構についての虚構である二次創作とそれを生み出して消費する環境についてカバーリングすることも可能だと考えられる。そこで「まんが・アニメ的リアリズム」を補助線として用いて、東浩紀は二次創作空間での想像力の可能性=「ゲーム的リアリズム」を追求していた。そしてそのときの参照作品がセカイ系と呼ばれる想像力を備えていた。宇野常寛は東浩紀をセカイ系の亡者と言うが、東は別にセカイ系を持ち上げるような運動をしていたわけではない。ここに東浩紀と宇野常寛のズレが見られる。
他方、「自然主義的リアリズム」=現実を中心に虚構を見ていく宇野の言葉では、二次創作空間で生まれる想像力(=ゲーム的リアリズム)については検討することすらできないだろう。セカイ系の終焉とともに二次創作空間も絶滅したのであればそれでいいだろうが、現実にそんなことはない。ウェブ上では個人製作の二次創作が今も多く公開されている。
加えて、『デスノート』などのゼロ年代作品を「自然主義的リアリズム」だけで語ろうとするのは無理があるように思う。もちろんゼロ年代作品も時代・時勢の影響を受けているはずであり、それ自体に問題はない。さらに、スクールカースト小説*2と少年マンガ/アニメ*3を、「自然主義的リアリズム」や「まんが・アニメ的リアリズム」と区分せずにゼロ年代という同じ土俵の上で検討しようとする姿勢は評価されてもいいだろう。この点は東浩紀が踏み込まなかった領域だ。そこに正しくスポットライトを当てたいと考えた彼は支持したいと思う。しかし宇野は「自然主義的リアリズム」のみですべての作品を語ろうとしているかのようで、その点については個人的に引っかかりを覚えてしまう。
「自然主義的リアリズム」を重視する宇野は、90年代後半の社会情勢(引きこもりetc.)を反映した想像力のことをセカイ系と認識している。だからこそ彼は、今はゼロ年代、決断主義の時代であり、時代が変わった今も変わらずに過去の遺物であるセカイ系を支持するのは間違っていると批判する。
確かに、セカイ系的な想像力は90年代の空気を色濃く反映したものだと考えられる。しかし一方で、セカイ系作品は社会や国家などの中間項を省略した、現実の社会とは無縁の想像力だと指摘することもできる。つまりセカイ系は現実とは無縁のものを描いた虚構ということになるが、このフレーズに聞き覚えはないだろうか。これは先に引用した「まんが・アニメ的リアリズム」のあり方によく似ているのだ。
「まんが・アニメ的リアリズム」は虚構を写生した虚構だ。それは現実とは無縁の想像力に他ならない。そしてセカイ系もまた、社会や国家の希薄な、現実とは無縁の世界がシミュレートされた想像力だ。このような意味で、セカイ系とは「まんが・アニメ的リアリズム」に極端に特化した想像力だと指摘することもできるだろう。しかし、一方で宇野常寛が"90年代的な引きこもり"と断罪しているように、セカイ系的な想像力をより現実に即した「自然主義的リアリズム」で読み解くこともできるのだ。
確かに純文学をはじめとした多くの分野では「自然主義的リアリズム」だけでその想像力を語ることが可能だろうし、むしろ「まんが・アニメ的リアリズム」の出番というのはほとんどないに違いない。しかし、マンガやアニメやゲームのような想像力は逆に「まんが・アニメ的リアリズム」を中心軸に据えられることが多い。加えて、宇野常寛のように「自然主義的リアリズム」で検討していくこともできる。
オタク系文化に近いフィールドでは現実 (自然主義的リアリズム)と虚構(まんが・アニメ的リアリズム)、両方の軸が反映されて想像力が生まれる。従って、どちらかだけで批評的な視線を当ててしまうと見落とすものが出てくる可能性があるのではないかと思う。だから、『ゼロ年代の想像力』がこのまま「自然主義的リアリズム」に沿って進んでいくのなら、第三者的な立場から、彼の主張を「まんが・アニメ的リアリズム」や二次創作的な消費環境と接続しておいたほうが、そこで見落とされるものは少なくなるのではないかと感じる。そのとき、参照作品を「まんが・アニメ的リアリズム」で語ることができるのかという点には注意を払わなくてはならないけれど*4。
以上が第3回を読んだ印象になる。以下、蛇足。
個人的には、宇野の「自然主義的リアリズム」に基づいた語り口よりも、やはり東浩紀が検討していた「ゲーム的リアリズム」のほうが好ましい。作品の受容のされ方、そこから次の作品を生み出す想像力がどのように発生してくるのか。その関係性を探るほうが、創作の立場からは前向きな話をしているように思えるのだ。
*1:つまり、「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」は対になるものとして捉えることができるが、「ゲーム的リアリズム」とは、「まんが・アニメ的リアリズム」の発展によって加速した二次創作空間に根差す想像力を定義するものだ。この点は東浩紀氏が自ら講演で語っていた。そのときの模様は次のURLでごく一部を確認することができる。http://d.hatena.ne.jp/nuff-kie/20070610/1181453546
プレミアリーグ ミッドウィーク
ミッドウィークの試合を簡単にレビュー。
- ユナイテッドvsポーツマス(1-1)
とにかくポーツマスが高い運動量でいいサッカーをしていた。ユナイテッドはルーニー不在が深刻なダメージとなっていることが露呈してしまった。もちろんテベスは素晴らしいプレイヤーなので、チームにフィットしてくれば彼の穴を埋めるだけの働きをする可能性はある。それにしてもテベスは守備意識の高いFWだ。ペケルマンの指導の賜物だろうか。ナニはドリブルこそ上手いけど昔のクリスティアーノ・ロナウドみたいに球離れが悪いので、まずはそこから直していく必要があるだろう。そのクリスティアーノがレッドカードをもらってしまったので、次節マンチェスター・ダービーは何かもうどうでもよくなってしまった。シティ圧倒的優位。仮にユナイテッドが開幕3試合で2ポイントなんてことになったらちょっと厳しそうだ。確かにシーズン終盤での追い上げが得意なチームではあるけれど…。
- チェルシーvsレディング(2-1)
チェルシーもテリー不在が響いている。ディフェンスからのビルドアップができないので攻撃も中途半端になりがちだった。しかしモウリーニョ恐るべし。前半は完璧にレディングのペースだったのに、後半にシドウェルを下げてミケル、フェレイラを下げてピサーロを投入、フォーメーションを4バックから3バックにした上でFWを3枚にするという力技な采配で一気に試合をチェルシーのものにしてしまった。その結果、55分までにあっさり逆転したのだからモウリーニョの試合を支配する力には脱帽。というかもう好きです、モウリーニョ監督…。(監督の詳細はこちら)
音楽を広げよう
みんながPerfume、Perfumeって言ってるもんだからPerfume聴いてみたら何か懐かしい感じがした。ヴォコーダーっぽさが?そうかも知れない。まぁ、何にせよPerfumeのサウンドのいくつかは俺にとって気持ちのいい部類に入る。
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- Perfume / Computer City
ということで以下、Perfumeが好きならこんなのはどうかな、というのを当方で勝手にピックアップ。音楽の楽しみ方は色々あるけど、中でもリンクをいろんな方向にたどっていくのって楽しいよね。The Clashからレゲエ/スカだったり、The LibertinesからThe Kinksだったり、OasisからThe Stone RosesやThe La’sだったり。好きなミュージシャンからあなたの音楽をどんどん広げよう。
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- Space Cowboy / Across The Sky
かつてFatboy Slimの秘蔵っ子とか言われていたSpace Cowboy。もはやそんな枕詞はどうでもいいですね。ヴォコーダーがとにかく気持ちいい。あと途中で挿入されるSexy Girls Can Help Sell Recordsというメッセージにニヤリとさせられる。
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- Simian Mobile Disco / Wooden
Arctic Monkeysの2ndアルバムのプロデューサ。PVじゃないけどいい曲なので紹介。
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- Justice / Let There Be Light
Daft Punkチルドレンなんて言われたりしてるハード・ロッキンなダンスミュージックユニット、Justice。PVじゃないけど、ゴリゴリかました挙句の果てにノーブルなメロディを聞かせる名曲。
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- Lucky Soul / Lips Are Unhappy
エレクトロからトラディショナルなサウンドへ。マッチョイズムに偏ってしまったのでかわいいやつを1つ。女性ヴォーカルならこんなのどうですか、ということで。
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- The Long Blondes / Once And Never Again
締めはThe Long Blondes。女性ヴォーカルならこんなのどうですか、ということで。
音楽ってやっぱすばらしー!