自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム – 宇野常寛が見落としているもの


S-Fマガジン 2007年 09月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2007年 09月号 [雑誌]

ようやくというか何と言うべきか。1ヶ月近く遅れてしまったが『ゼロ年代の想像力』第3回を読んだので言及しておこうと思う。今回の要旨をまとめると次のようになる。

  • 90年代前半までを支配したジャンプ的なトーナメントシステムとは、社会が用意したルールの中で戦うことを意味している(筆者註:これは大きな物語を指していると思われる)
  • そのシステムの崩壊は、震災+地下鉄サリン事件エヴァが象徴的な1995年に起こった。同年、ジャンプの人気を支えていた『ドラゴンボール』と『幽遊白書』の連載が終了、トーナメントシステムの時代が終わりに向かう。ここから時代は決断主義/サヴァイブ感の準備期間に入る
  • 9.11、ネオ・リベラリズムの登場。引きこもっていては殺されてしまう世界の到来によって、ゼロ年代的なサヴァイブ感を備えた作品群が登場した
  • そこではトーナメントシステム(大きな物語)以降のバトルロワイヤル的な世界が形成される。各プレイヤーが信じたいもの(正義)を信じて、生き残るために戦う
  • 碇シンジ(セカイ系)では夜神月(決断主義)を止められない。というか夜神月を倒してもバトルロワイヤルは止まらない

東浩紀は『動物化するポストモダン』では90年代が抱える時代性を検討しつつ二次創作的な消費環境について追及していた。続く『ゲーム的リアリズムの誕生』では時代性には触れずに、消費環境だけにフォーカスを当ててより深い検討を行ってた。これに対して、宇野常寛が焦点を当てているのはその時代がどのように想像力を駆動しているかという点だ。彼らが重点的に検討しているのはそれぞれ消費環境と時代性であり、第2回を読んだときにこのズレを指摘したわけだけれど、この論調は第3回でも変わらなかった。

宇野は、彼が『ゼロ年代の想像力』で挙げた作品がすべて「自然主義的リアリズム」のみで支えられていると認識をしているように見える。だからこそ、彼は1995年/引きこもり/9.11といった現実だけを同時代のマンガやアニメ、ゲームなどに結び付けて、消費環境について検討していないのではないだろうか。

ここで言う「自然主義的リアリズム」とは現実を写生するものだ。例えば純文学のフィールドを想像してもらえれば分かると思う。介護やいじめや自殺や虐待などが社会的なトピックとして持ち上がったときにそれをテーマにした虚構/創作が登場するのは、この「自然主義的リアリズム」に根差しているからだと言えるだろう。

これに対して、虚構を写生する虚構を「まんが・アニメ的リアリズム」であると大塚英志は定義していた。この「まんが・アニメ的リアリズム」とは作家・新井素子が1970年代後半にデビューした直後の言葉--ルパン三世の活字版を書きたかった--から導き出されている。大塚に従えば「まんが・アニメ的リアリズム」は現実の描写とは無縁で、マンガやアニメやゲームなど架空の想像力に根差して作られた作品ということになる。従来の「自然主義的リアリズム」では現実の写生のみによって創作活動が行われていたが、新井素子はその領域から軽々と飛び出したとして大塚はこれを大きく評価している。

このように、出自それ自体が虚構である「まんが・アニメ的リアリズム」の作品は虚構の虚構ということになる。つまり虚構に根差しているがゆえにオリジナルの段階で既に二次創作的だと言うこともできるだろう。だからこそ、「まんが・アニメ的リアリズム」に根差した想像力は二次創作の素材として消費されることを許容するのではないだろうか。二次創作もまた、虚構の虚構、つまり「まんが・アニメ的リアリズム」に根差していると言えるからだ。

新井素子以降、彼女と同種の想像力で創られた物語が語られるようになり、それが「まんが・アニメ的リアリズム」と呼ばれる作品群になる。これが二次創作空間の成熟を準備したのではないかと推測できる。

そして90年代後半の『エヴァンゲリオン』以降から原作が二次創作の素材となり、それが次の原作を生むための素材になるという循環がさらに加速していく。二次創作によって発生してしまうスーパーフラットなマルチエンドを単一の作品へと落とし込んでいく想像力を、東浩紀は「ゲーム的リアリズム」であると定義していた*1

このように「まんが・アニメ的リアリズム」は虚構についての虚構を定義している。それゆえに、同じく虚構についての虚構である二次創作とそれを生み出して消費する環境についてカバーリングすることも可能だと考えられる。そこで「まんが・アニメ的リアリズム」を補助線として用いて、東浩紀は二次創作空間での想像力の可能性=「ゲーム的リアリズム」を追求していた。そしてそのときの参照作品がセカイ系と呼ばれる想像力を備えていた。宇野常寛東浩紀セカイ系の亡者と言うが、東は別にセカイ系を持ち上げるような運動をしていたわけではない。ここに東浩紀宇野常寛のズレが見られる。

他方、「自然主義的リアリズム」=現実を中心に虚構を見ていく宇野の言葉では、二次創作空間で生まれる想像力(=ゲーム的リアリズム)については検討することすらできないだろう。セカイ系の終焉とともに二次創作空間も絶滅したのであればそれでいいだろうが、現実にそんなことはない。ウェブ上では個人製作の二次創作が今も多く公開されている。

加えて、『デスノート』などのゼロ年代作品を「自然主義的リアリズム」だけで語ろうとするのは無理があるように思う。もちろんゼロ年代作品も時代・時勢の影響を受けているはずであり、それ自体に問題はない。さらに、スクールカースト小説*2少年マンガ/アニメ*3を、「自然主義的リアリズム」や「まんが・アニメ的リアリズム」と区分せずにゼロ年代という同じ土俵の上で検討しようとする姿勢は評価されてもいいだろう。この点は東浩紀が踏み込まなかった領域だ。そこに正しくスポットライトを当てたいと考えた彼は支持したいと思う。しかし宇野は「自然主義的リアリズム」のみですべての作品を語ろうとしているかのようで、その点については個人的に引っかかりを覚えてしまう。

自然主義的リアリズム」を重視する宇野は、90年代後半の社会情勢(引きこもりetc.)を反映した想像力のことをセカイ系と認識している。だからこそ彼は、今はゼロ年代決断主義の時代であり、時代が変わった今も変わらずに過去の遺物であるセカイ系を支持するのは間違っていると批判する。

確かに、セカイ系的な想像力は90年代の空気を色濃く反映したものだと考えられる。しかし一方で、セカイ系作品は社会や国家などの中間項を省略した、現実の社会とは無縁の想像力だと指摘することもできる。つまりセカイ系は現実とは無縁のものを描いた虚構ということになるが、このフレーズに聞き覚えはないだろうか。これは先に引用した「まんが・アニメ的リアリズム」のあり方によく似ているのだ。

まんが・アニメ的リアリズム」は虚構を写生した虚構だ。それは現実とは無縁の想像力に他ならない。そしてセカイ系もまた、社会や国家の希薄な、現実とは無縁の世界がシミュレートされた想像力だ。このような意味で、セカイ系とは「まんが・アニメ的リアリズム」に極端に特化した想像力だと指摘することもできるだろう。しかし、一方で宇野常寛が"90年代的な引きこもり"と断罪しているように、セカイ系的な想像力をより現実に即した「自然主義的リアリズム」で読み解くこともできるのだ。

確かに純文学をはじめとした多くの分野では「自然主義的リアリズム」だけでその想像力を語ることが可能だろうし、むしろ「まんが・アニメ的リアリズム」の出番というのはほとんどないに違いない。しかし、マンガやアニメやゲームのような想像力は逆に「まんが・アニメ的リアリズム」を中心軸に据えられることが多い。加えて、宇野常寛のように「自然主義的リアリズム」で検討していくこともできる。

オタク系文化に近いフィールドでは現実 (自然主義的リアリズム)と虚構(まんが・アニメ的リアリズム)、両方の軸が反映されて想像力が生まれる。従って、どちらかだけで批評的な視線を当ててしまうと見落とすものが出てくる可能性があるのではないかと思う。だから、『ゼロ年代の想像力』がこのまま「自然主義的リアリズム」に沿って進んでいくのなら、第三者的な立場から、彼の主張を「まんが・アニメ的リアリズム」や二次創作的な消費環境と接続しておいたほうが、そこで見落とされるものは少なくなるのではないかと感じる。そのとき、参照作品を「まんが・アニメ的リアリズム」で語ることができるのかという点には注意を払わなくてはならないけれど*4

以上が第3回を読んだ印象になる。以下、蛇足。

個人的には、宇野の「自然主義的リアリズム」に基づいた語り口よりも、やはり東浩紀が検討していた「ゲーム的リアリズム」のほうが好ましい。作品の受容のされ方、そこから次の作品を生み出す想像力がどのように発生してくるのか。その関係性を探るほうが、創作の立場からは前向きな話をしているように思えるのだ。

*1:つまり、「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」は対になるものとして捉えることができるが、「ゲーム的リアリズム」とは、「まんが・アニメ的リアリズム」の発展によって加速した二次創作空間に根差す想像力を定義するものだ。この点は東浩紀氏が自ら講演で語っていた。そのときの模様は次のURLでごく一部を確認することができる。http://d.hatena.ne.jp/nuff-kie/20070610/1181453546

*2:自然主義的リアリズム

*3:まんが・アニメ的リアリズム

*4:例えばスクールカースト小説にこれを当てはめることができるのかは不明。切り分けが必要になるだろうと思う