90年代とゼロ年代を接続する想像力

宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』を読んで、1週間前にこのようなエントリを書き上げた。その内容を簡単にまとめるとポイントは次の2つになる。

  1. 宇野常寛の言葉(決断主義、サヴァイヴ感)だけでは失われてしまう想像力が出てくるのではないか
  2. ゼロ年代の想像力は、90年代の想像力と地続きなのではないか(90年代の想像力を"セカイ系"と一括りにして退場させてしまうことに問題はないのか)

今回はこれを受けて、90年代の想像力とゼロ年代の想像力の接続について検討しようと思う。前回のエントリでは「批評の対象はゼロ年代の想像力を抱えた作品にすべき」であると書いたので、今回は『Fate/stay night(PC版)』を対象とし、この作品を通じて90年代からゼロ年代の想像力がどのように接続されるのかを考えたい。まずは作品について簡単に説明をしておこう。

Fate/stay night』とは2004年にType-Moonの商業化第1弾作品として送り出されたPC向けノベルゲームである。架空都市・冬木市を舞台に、7人の魔術師がマスターとなって専属のサーヴァントを使役してバトルロワイヤルを繰り広げ、最終的には他のマスターをすべて退けて、"願いを叶える聖杯"を手に入れることを目標とする聖杯戦争を描いた作品だ。同種のノベルゲーム作品の中でもトップクラスのセールスを上げ、アニメ化、コミカライズも行われ、コンシューマへの移植も実施されるなどクロスプラットフォーム的な展開をしている。

念のために書いておくと、『Fate/stay night』をゼロ年代の想像力の代表格にしたいというわけでも、特権的に扱いたいというわけでもない。ただ、この作品における主人公の内面の扱われ方は特徴的であり、その振るまいは90年代とゼロ年代をつなぐ想像力のサンプルになるのではないかと考えている。

そして、何よりも重要な点は、この作品に対する宇野常寛東浩紀の評価が対立していることだ。主人公・衛宮士郎の内的な感情について、宇野は「引きこもっていては殺されてしまうので戦うことを決断している」一例であるとし、東浩紀は「なんのために戦っているのか、それ自体を疑問に思うという屈託こそが、オタク的想像力の強度を支えている」として、その疑問を持たない主人公のあり方を、「『エヴァ』以前、『ガンダム』以前への退行」だと評していた。

ここでどちらが正しいとか、そういう話をするつもりはない。しかし、彼らの言説だけでは、失われてしまうものがあるのではないかということを追っていくつもりだ。本エントリはその補完を目的としている。

具体的には、この作品の主人公の内面描写を、単純に「『エヴァ』以前、『ガンダム』以前への退行」として片付けてしまってもいいのかということを検討していきたい。そして『Fate/stay night』という一例を通じて、90年代の想像力とゼロ年代の想像力が地続きの関係にあるのではないかということを確認していきたい。

これ以降、いくつかの作品を参照することになる。中にはネタバレを含むこともあるので、あらかじめ引用される作品名を列記しておく。

(以上、年代順)

以上を前置きとして、本題に入りたい。



1.90年代とゼロ年代の内面の扱われ方
90年代の想像力からゼロ年代の想像力への変遷を考える上で重要なキーとなるのが、"登場人物の内面の扱い"なのではないかと考えている。『Fate/stay night』において宇野常寛東浩紀の意見が衝突しているのも、主人公の内面の捉え方の相違にある。そこで、90年代とゼロ年代、2つの時代における内面のあり方について把握しておきたい。ここでは物事をシンプルに見渡すために参照元をできるだけ減らし、大きな括りで話を進めることにする。

90年代の想像力の代表として、宇野常寛も挙げていた『新世紀エヴァンゲリオン』(1994年)を引用する。これを90年代の代表とすることに、特別な説明はしないが問題ないと考えている。その程度には、この作品は90年代を表しているといえるだろう。この作品に基づいた想像力が支配的だった時代を、「自己の内面の時代」と仮に呼ぶことにしたい。

次にゼロ年代の想像力の代表として、これも宇野が決断主義の一例として挙げていた2004年の『Fate/stay night』を参照する。この作品を引用する理由は、東浩紀が『Fate/stay night』の主人公・衛宮士郎の内面について「『エヴァ』以前への退行」と批判していたことにある。そして、宇野常寛東浩紀の批判をメタ批判していた。つまり、両者の『Fate/stay night』への評価はまったく相容れないものとなっている。ならば、この作品について別の角度から検討することが、90年代とゼロ年代をつなぐ架け橋になるのではないかと考えている。

以下は、『美少女ゲームの臨界点』に収録されている東浩紀の発言だ。『Fate/stay night』がヒロインの内面について語ることに特化している反面、主人公の内面を語ることにはあまり機能していないという流れを受けている。

(引用者補足:衛宮士郎には)内面がないし、葛藤がない。『機動戦士ガンダム』以前の少年の造形だと思う。むしろ『宇宙戦艦ヤマト』に近いでしょう。古代進ってなにも悩んでなかったじゃない。なんのために宇宙戦艦乗ってんだとか、ヤマトって無意味なんじゃないかとか、地球なんて滅びちゃえばいいとか、古代は絶対思わない。1979年に『ガンダム』が現れて以降、そういう能天気さは通用しなくなって、その屈託こそがオタク的想像力の強度を支えてきたと思ってたんだけど、『Fate』はそういうのをすべて吹き飛ばしている。

宇野常寛は、この東浩紀の評価を「ゼロ年代前半の変化がまるで視界に入って」いないと糾弾していた。ならばこれを「『ガンダム』以前への退行」ではなく「『エヴァ』以降につながる想像力」と捉え直した場合、どのように考えることができるのか。ここではそれを試みたい。

もちろんそれは、90年代の想像力とゼロ年代の想像力を分断させないために行うことになる。そして、この作品と同時代的な想像力に満ちた作品が表れた時期を「他者の内面の時代」と呼ぶことにしようと思う。これは、『Fate/stay night』がヒロインの内面を読む作品だったという、上記の流れを受けての仮定である。

以上を大まかな定義として、90年代からゼロ年代へかけての内面の変遷を検討していきたい。

2.90年代からゼロ年代に向かう内面の変化
新世紀エヴァンゲリオン』はそのストーリーが主人公・碇シンジの内面に深く関与している内省的な作品だった。単にメガヒット作品だったからというだけでなく、同時代的な問題も抱えていたために、多くのポスト・エヴァ作品を生み出すことになった。そして宇野は、時代は決断主義にシフトしているにも関わらず今もこの気分を延々と引き摺っていることに問題があると、『ゼロ年代の想像力』の中で指摘している。そして、決断主義の一例として、『Fate/stay night』を挙げていた。

しかし、『Fate/stay night』を決断主義だけで捉えてしまうと、90年代とゼロ年代の想像力が断ち切られているように見えてしまう。それはこの作品がノベルゲームというジャンルに属していて、ノベルゲームとは、プレイヤーに何かを選び取らせるもの、つまり「ガンダムに乗るor乗らない、エヴァで戦うor逃げる」という選択をさせる、その屈託によって支えられているジャンルだと考えられるからだ。

ただ、この分野で最も影響力のある批評家・東浩紀はこの作品をほとんど評価していない。そして宇野の指摘にある通り、『Fate/stay night』は批評的な視点から無視されてしまうことがそぐわないくらいに、ヒット作品として受容/消費されている。そこで、これから『Fate/stay night』に彼らとは違う視点を持ち込み、90年代とゼロ年代の想像力が接続しているのではないかという検討を行いたい。

3.他者の内面の時代、90年代以降の想像力
先ほど、『Fate/stay night』と類似する想像力が生まれた時期を「他者の内面の時代」と定義した。これは、『エヴァ』の物語のベクトルが自己の内面へと向かっていたこととは対照的に、『Fate/stay night』は他者の内面に関与する方向で物語が展開されているからである。どういうことか、以下でその流れを見ていこう。

Fate/stay night』には「他者の内面の時代」の特徴が色濃く表れている。その物語は、自己の内面ではなく他者の内面に深く依存し、各ルートの物語は、ヒロインの内面を読みにいくとでもいうべき展開となっている。具体的には、Fateルートではヒロインのひとりであるセイバーの過去が士郎の夢に流れ込み、それをプレイヤーが受容するという手法となって表れている。そこでは、ヒロインの内面の葛藤が繰り返し語られる様子を見て取ることができる。

反対に、士郎にはヒロインに対する葛藤はあっても、東浩紀が指摘するように、戦うこと自体に対する疑問などは持ち合わせていない。むしろ、聖杯戦争への参加を拒否するとバッドエンドになり、戦うことを無条件で受け入れるしかない状況となっている。

このような『Fate/stay night』の振るまいを、東浩紀は「『エヴァ』以前、『ガンダム』以前への回帰」と批判し、宇野常寛決断主義と評していた。しつこいくらいの繰り返しになるが、これでは両者ともに90年代とゼロ年代の想像力を分断してしまっている。

そこで上記のような『Fate/stay night』の振るまいは、『ガンダム』以前への退行なのではなく『エヴァ』以降の想像力を備えているのではないかと提言しようと思う。もちろん宇野の言う決断主義というキーワードを用いずに、さらに東浩紀へのカウンターを当てることで、それを試みたい。

4.『Fate/stay night』における、ゼロ年代的な手法
まず、士郎の内面について触れることにしよう。確かに彼に葛藤や屈託といったものは希薄で、その内面には何もないように見える。彼が持つ正義の味方になりたいという願望は、自身が災厄からただひとり生き残った生存者であるという負い目と、父親の遺志が混合されたものであるが、そもそもそれに対する疑問を士郎は持たない。

例えば、士郎は「正義の味方なんてやってられるか」ということは考えない。人に頼まれれば嫌とは言わずに人助けに精を出す。用済みになったガラクタたちを魔術で修繕することで、救いきれなかった被災者たちを救うという正義の味方ごっこにいそしむ。そこには確かに内面の葛藤は見られない。このように、士郎はからっぽな器のような存在だと言える。東浩紀はこれを「『エヴァ』以前、『ガンダム』以前への退行」と批判していた。

ただ、東浩紀は指摘していないが、この作品には90年代とゼロ年代をつなげるための回路が見られる。それによって、士郎の内面はアクロバティックな手法によって語られている。その手法は、作中のアーチャーという存在をキーとしている。

簡単に説明すると、アーチャーとは聖杯戦争に召喚されたサーヴァントの一体だが、正義の味方になりたいと切望した主人公・衛宮士郎が世界と契約し、英霊化した姿である。サーヴァントとは大抵は過去の英雄たち(ヘラクレスギルガメッシュ、クー・フーリンなど)が召喚されるものだが、アーチャーのみ未来から召喚されている。つまり、アーチャーは士郎の行く末として描かれているのだ。

先ほどから繰り返しているように、士郎には内面の葛藤が見られない。しかし、そのからっぽな士郎の成れの果てとして正義の味方になったアーチャーには、苦悩や葛藤といったものを見ることができる。ここでは、士郎に屈託がないことの結果として、アーチャーが悩みを背負うことになるという構図が発生している。このとき、本来は士郎が抱えるべき屈託がアーチャーに託されてしまっていると考えれば、士郎の内面はアーチャーによって補完されていると見ることはできないだろうか。

Fate/stay night』では、主人公である士郎の内面も、士郎のアバターであるアーチャーという存在を介しながら語られていく。士郎自身には悩みなどないが、それは、士郎がなりたいと願った正義の味方であるアーチャーの悩みとして浮き彫りになる。

「他者の内面の時代」では、私小説的な悩みを抱えているのは私ではなく他者であり、ゼロ年代以降は他者の内面を読みにいくという消費環境に変化しているのではないだろうかと提言したい。これは、受容のスタイルが縦軸から横軸、つまり物語からキャラクターに変化したことと関係があるのではないかと考えられる。

それは、90年代以降の二次創作空間の成熟とは無縁ではないはずだ。つまり、「他者の内面の時代」とは、物語を主人公の視点で捉えてキャラクターを消費するのではなく、原作の段階からすでに二次創作的な物語=キャラクター主体の物語が描かれているという消費形態になる。その過程では私小説的な私はキャンセルされて自己の内面は希薄となり、代わりに私小説的な私すらキャラクター化されて他者の内面として表現され、消費の対象となっているのではないだろうか。

5.『Fate/stay night』に見られる自己の内面と他者の内面の境界線
Fate/stay night』のヒロインたちは、主人公に対する他者としてその内面を語られて、キャラクター消費的に消費されていく。これは「他者の内面の時代」を体現していると言えるだろう。一方、アーチャーと士郎は同一の存在でありながら他者であると見ることもできる。なぜなら、作品中で士郎とアーチャーは明確に区別されており、性格にもデザインにも似たところは見られないからだ。よって、士郎とアーチャーの関係はエヴァ的な「自己の内面の時代」から「他者の内面の時代」へと移行する、その境界線上にあるとは考えられないだろうか。(士郎に対するアーチャーは、私小説的な私でありながら、キャラクターとしての私でもあるという意味において)

このような、自己の内面が他者を通じて語られるという手法こそ、東浩紀に『Fate/stay night』を退行と判断させてしまった原因ではないだろうか。以上のように考えることで、『Fate/stay night』を『エヴァ』以降の想像力と接続しうるということと(自己の内面の時代から他者の内面の時代への変遷)、ひいては90年代の想像力とゼロ年代の想像力をつなぐポイントを示せたのではないかと思う。

6.他者の内面の時代、そのいくつかの具体例
「他者の内面の時代」の作品を挙げるとすれば、2006年のヒット作品である『Final Fantasy XII』がこれに当てはまるだろう。この作品の主人公には存在価値が完全にない。例えば彼の内面の葛藤(兄を戦争で失っている、敗戦国に生きている)も将来の夢(空賊になりたい)も物語にはあまり影響を及ぼさない。逆に、視点キャラクターとしての性格に特化するため、物語に影響を及ぼさないことが求められているのではないかとも考えられる。そして『FFXII』のストーリーのほとんどは、他者であるアーシェとバルフレアの描写に費やされる。このように、『FFXII』では私小説的な私ではなく他者=キャラクター主体のストーリーテリングを見て取ることができる。

また、舞城王太郎による『ドリル・ホール・イン・マイ・ブレイン』も同種の想像力が影響していると指摘できるのではないだろうか。無論、この作品はセカイ系的な想像力や『AIR』とセットにして批評されるほうが適しているだろうと思うし、『ファウスト』のvol.1に収録されているという事実も、それ以降の『ファウスト』のマッチョイズムへの傾倒を考えた場合に重要だと思う。しかし、この作品は『Fate/stay night』と近い時期に発表されたこともあって、同時代的な主題を持っているのではないかということは指摘されてもいいだろう。

『ドリル・ホール・イン・マイ・ブレイン』も『Fate/stay night』と同じように、主人公と表裏一体となるキャラクターが存在している。視点キャラクターである村木誠は世界を救うための戦闘と性的な快楽のことしか頭になく、内面にその葛藤を持たない。それを証拠に、世界を救うために彼はヒロインである鞘木あかなをためらうことなく殺してしまう。そして村木誠の内面の葛藤は、プレイヤー視点にいる加藤秀昭が語るという構造になっている。もちろん、冒頭で描かれているように加藤秀昭は村木誠とはまったくの他者である。ここでも、他者を通じて自己の内面を語るという手法を見ることができる。

7.最後に
今回、『Fate/stay night』を通じて登場人物の内面の受容のされ方を追っていくことで、90年代の想像力をゼロ年代の想像力と接続する筋道を示せたのではないかと思う。自己の内面すらキャラクター化されて、他者として消費されてしまうという流れは、90年代以降の二次創作とそれに基づく消費環境の進化/深化にあると考えてよいのではないだろうかと思う。

これが結論となるか、それとも次の思考へ踏み出すためのステップとなるかはまだ判らない。ただ今は、このような内面描写の変化が発生した原因は90年代以降の二次創作の隆盛であり、その時代の空気を表した作品が2000年の『AIR』なのではないかと考えている。あの作品で、プレイヤーは物語の途中で自己の消失を体験し、ひたすら語られるヒロインの内面を読み続けることになる--まるでその後に登場する作品群を予兆しているかのように。そして、この作品は村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の影響下にあると考えられる。そういう意味で、『AIR』は90年代とゼロ年代の過渡期的な位置にあるのではないだろうかと最後に付け加えることで、この考察をひとまず終えようと思う。