『Fate/stay night』救済計画

この前の日曜日に書いたエントリでは詳しく触れていなかったけれど、俺はそれなりに『Fate/stay night』という作品を評価しています。もちろん俺もあの作品のあり方には疑問を持っていて、それは士郎の内面についてではなくて、作品の分岐構造についての違和感なんだけど、だからこそ「なぜ俺はそれでも『Fate/stay night』が好きなんだろうか」と煩悶していたわけです。その結果、いろいろな解釈=妄言を導き出すことに成功しました。

というようなことをおよそ1年前に考えていて、その当時書いた未発表エントリを発掘して少し手を入れました(俺の今の言葉で書いている)。タイミング的には、今が一番ちょうどいいかと思うので、公開します。

ちなみに「『Fate/stay night』救済計画」というタイトルは、最終ルートのせいで台無しになっていると感じられて仕方のないこの作品をなんとかサルベージしようというお節介から付けられたものです。従って、最終ルートが一番好きだという人には何の役にも立ちません。というわけで以下ネタバレ。


1.ノベルゲームの身振り
まずはノベルゲームの構造について簡単に触れておきたい。端的に言って、ノベルゲームとは、同じ舞台装置と同じ登場人物を用いて、マルチストーリー/マルチエンドを表現することができるシステムである。そして、それぞれのストーリーは時間軸上での並列関係にあり、お互いに矛盾を発生させることも起こりうる。しかし、並列であるがゆえに異なるストーリー間に発生する矛盾を許容し、それぞれが等価に消費されていく。

分かりやすく言ってしまえば、Aルートで恋愛関係になったヒロインのことをほったらかしてBルートでは異なるヒロインを追いかけ回すといったことが何の矛盾もなくシステム面で可能となっており、また消費する側もそのようなシステム(キャラクター主体の消費)を許容しているということだ。

このようなノベルゲームの身振りはオタク系文化の特徴である二次創作と類似している。二次創作とは原作と並列的に、つまり原作との矛盾を許容して消費される物語である。つまりノベルゲームの並列的な世界と構造的に近いものがある。そういった意味でもノベルゲームは90年代以降の想像力を体現していると言えるだろう。だからこそ、個人的にはノベルゲームというジャンルを重要だと感じている。

しかし、『Fate/stay night』は、この点で従来のノベルゲームとは異なる構造を抱えていた。それは、この作品にはルートが3つ存在するが、それぞれの攻略順序があらかじめ指定されているということだ。『Fate/stay night』では第1ルートを終了してはじめて第2ルートが開放され、それを終えることで最終ルートに進むことができるようになる。

このように、すべてのルートが並列関係にあるのではなく、第1ルートありきで第2ルートがあり、それらを受けて最終ルートがあるというような階層構造の関係となっている。多くのノベルゲームのマルチストーリーは並列関係を前提としているものだが、『Fate/stay night』の構造はそれを覆すような振るまいだといえるだろう。

東浩紀はこれを『美少女ゲームの臨界点』で以下のように語っていた。

そもそもゲームって、プレイヤーにできるかぎり自由度を与えるのが善だというジャンルでもあって、美少女ゲームは、そこに単一のエンドがある物語を乗っけるために、いろいろアクロバティックな手法を編み出してきたわけじゃないですか。『Fate』はそんな問題意識なんか一切なく、美少女ゲームの形式だけ借りて、マンガやアニメをシミュレートしているだけ、という感じがした。

確かにそう指摘することもできるだろう。しかし、次のようにも考えることはできないだろうか。『Fate/stay night』の階層構造は、シナリオに要請されたものなのではないか、と。

2.『Fate/stay night』の構造
まず、個人的な奈須きのこ評を示すと、彼はある意味において作家性の強いシナリオライターだと考えている。彼を評するとき、多くの場合は文体やレトリック、設定といった物語的な部分に目を向けられることが多いが、逆に作品構造的な部分に対して強みを持っているのではないかとも思っている。

Fate/stay night』は確かに、東浩紀の言うようにプレイヤーから自由を奪うような作りとなっている。しかし、彼の他の作品、『月姫』、『歌月十夜』、『Fate/hollow ataraxia』を見てみると、一概にそうとは言い切れないように思う。個別に見ていくことはしないが、これらの作品はマルチストーリーやマルチエンド、そしてその上に単一のエンドを乗せるといったノベルゲームの欲望に忠実である。もちろんプレイヤーへの自由度も配慮されている。つまり、これらの作品には二次創作的なノベルゲームの構造を見て取ることができるのだ。

従って、彼の他の作品から切り離して『Fate/stay night』だけを持ち出して、それを退行としてしまうことにはいくらかの不備があるのではないかと思うし、個人的には、あのルート縛りは物語の一回性を回復するためにあえて導入されたものなのではないかと考えている。

ここから『Fate/stay night』の構造的な問題意識について考察していこうと思う。

3.『Fate/stay night』の問題意識
Fate/stay night』にも、ノベルゲーム的な問題意識はあるのではないだろうか。それは、Fateルートのヒロインであるセイバーの聖杯への執着と、それに対する主人公・士郎の感情に垣間見える。

セイバーはどうして聖杯を求めるようになったのか。それは、死の間際に自らの道程を振り返り、自身が王に選定されたことに問題があるのではないかと考え、その過去を修正したいと願ったからだ。その結果、彼女は英霊となり、選定のやり直しを実現するために聖杯を手に入れようとする。

それに対して、士郎は彼女の願望を間違っているとする。セイバーは頑なにやり直しを願ったが、紆余曲折の末に、セイバーと士郎は聖杯を放棄することになる。以上が、相当に端折ったFateルートの流れになる。

このセイバーの振るまいは、ノベルゲームにおけるマルチストーリー/マルチエンドの構造と重なる。彼女の行為は、異なる結末を得るためにルートの分岐点に戻ろうとしているノベルゲームのプレイヤーのように見える。

だとすれば、それを否定する士郎は、物語の一回性を回復しようとしているとは考えられないだろうか。そして物語の上でも、二人は聖杯を放棄して、ノベルゲーム的なやり直しを否定している。さらに物語を進めていくと、最終ルートで士郎とセイバーは敵同士として戦うことになり、士郎がセイバーを退けるという展開を見ることができる。このように、第1ルートでの聖杯の否定と最終ルートでのセイバーの否定を重ねることで、ノベルゲーム的なルート構造の否定=物語の一回性の回復を試みているのではないだろうか。

そのように考えると、『Fate/stay night』のルート順序が並列に存在するのではなく、攻略順序が指定されていることに理由を付けることもできる。すなわち、物語が複数化されてしまうノベルゲームという想像力の中で物語の一回性の回復を目指したからこそ、『Fate/stay night』の構造は奇形化している、と。

以上から『Fate/stay night』も、『ゲーム的リアリズムの誕生』で指摘されていた作品群と同種の想像力の元に生まれた作品であるとは考えている。『Fate/stay night』は、決してマンガやアニメをシミュレートしたのではなく、物語が複数化されてしまう空間で、それでも単一のエンドを求めようとしたときの、その試みのひとつなのではないだろうか。