東浩紀×伊藤剛対談「『テヅカ・イズ・デッド』から『ゲーム的リアリズムの誕生へ』」ダイジェスト版


はじめに
さる2007年6月5日に行われた東浩紀伊藤剛の対談「『テヅカ・イズ・デッド』から『ゲーム的リアリズムの誕生へ』」のダイジェスト版と私的な感想をまとめた。すべてを網羅するのではなく、個人的に印象に残った部分のみを断片的に抜き出すようなかたちになっている。これは本エントリの目的が対談のレポートにあるのではなく、個人的な感想を述べることがメインになっているからである。

抜き出した部分にはこちらで勝手にタイトルをつけて、大まかな性格を与えた。まずは“1.『ゲーム的リアリズムの誕生』について”。ここでは、東浩紀自身が自著についての説明を行った箇所のみを引用している。本来は、対談の中での伊藤剛とのやり取りの一部分にすぎなかったものだ。しかし、『ゲーム的リアリズムの誕生』の読者にとってはある程度参考的な内容となるのではないかと思う。

“2.キャラクター文化にとっての美とは?”とその次の“3.キャラと断片化した物語”では、キャラの成立要件を追っている。この対談で答えが出たわけではないが、東・伊藤両氏の現在の興味の一部はここにあるようなので、フォローしていくと面白いかもしれない。

最後の“4.まとめ”は本エントリのメインパートで、個人的な見解を連ねている。1〜3までを受けて、何を感じたのか・考えたのかということを示したつもりだ。

なお、本エントリの前提条件として以下のように定めている。

  1. 枠線で囲まれた部分は、対談の内容を引用している
  2. 引用は事実に忠実であろうと極力デリケートに扱ったつもりだ。対して、引用以外の箇所はid:nuff-kieの個人的意見なので、東・伊藤両氏の意見と混同しないように注意されたい
  3. 本エントリで扱っている話題は対談での時系列順には並んでいない。最初に記したように、本エントリの目的は対談のレポートにはない
  4. 違う流れから出てきた話題であっても、同類項としてまとめられる内容はこちらの判断でまとめている。そのことはすべての引用部分の直前で記述している

いずれにせよ、本稿は、あくまで個人ブログのいちエントリにすぎない。網羅的かつ正確なレポートを求める読者は対談の書籍化を待っていただくのが良いと思う。
前置きがやたらと長くなってしまったが、ようやく本題に入りたい。


1.『ゲーム的リアリズムの誕生』について
東浩紀は、ゲーム的リアリズムについて次のように語っていた。

東「自然主義的リアリズムに対して私小説があるように、まんが・アニメ的リアリズムに対してゲーム的リアリズムがある。ゲーム的リアリズムは、別に、まんが・アニメ的リアリズムの次の流れという意味ではない」

自著『ゲーム的リアリズムの誕生』についても、

東「キャラクターとは物語を横断する力のことだと考えている。よって、物語を複数化させるような空間、オルタナティブな物語を構築させるような空間が無ければキャラは出てこない。ポストモダン以降、受容のスタイルが物語中心ではなくなってきて、縦軸(物語)から横軸(キャラ)へと変遷している。また、『テヅカ・イズ・デッド』ではキャラとキャラクターが用語として区別されているが、『ゲーム的リアリズムの誕生』ではそういった使い分けはせずに、キャラクターが物語を横断する、二次創作を可能とする空間についてのみ考えた。また、そういった空間で、作品の単一性を回復しようとすると特殊な操作が必要になる。それは、マルチエンドをどう文学的に処理するかということにもつながってくる」

ということだと説明。『ゲーム的リアリズムの誕生』の理解のための補助線になるのではないかと思うので、ここに引用しておく。

また、この日の対談は『ゲーム的リアリズムの誕生』をベースに行われている。『テヅカ・イズ・デッド』で見られた“キャラ”と“キャラクター”の使い分けもされていない。従って、このエントリではどちらのキーワードも同じ意味として捉えてもらえればと思う。

2.キャラクター文化にとっての美とは?
伊藤剛が「キャラクター文化にとっての美というものが気になっている。キャラクター美、マンガ美が気になる」と発言、以下はそれを受けての展開。

東「絵が魅力的だとキャラが立つような錯覚をしてしまうが、ラノベのように、図像を伴わなくてもキャラは立ってしまう」

これは『コンテンツの思想』でもたびたび言及されていた東浩紀の持論だ。ラノベと言ってしまうと分かりづらいかもしれないけれど、例えば清涼院流水のJDCシリーズを図像なしのキャラクター小説と考えればイメージしやすいだろう。
図像とキャラクターの関連性について、東浩紀は以下のようにも語っていた。別の文脈から生まれた話題だったが、興味深い内容だったのでここに引用する。

東「『らき☆すた』は、オープニングを見ただけでキャラが分かった。もはや図像がキャラクターを立てる必要性がなくなってきているようにも思える」

ここで東浩紀が言いたかったことは、つまり「オープニングを見ただけで、各キャラがどのように立っていて、作中でどういう役割にあるのかが分かった」ということだろうと思う。

参考映像「もってけ!セーラーふく」(『らき☆すた』オープニング)
確かに、なんとなくは分かるような気がするが、東浩紀の発言は萌え4コマという手法へのリテラシーが関係しているようにも思える。いずれにせよ興味深い指摘だとは思う。
以下、話を本筋に戻す。

伊藤「テヅカ・イズ・デッドのキャラは図像から考えられているが、東浩紀の考えるキャラは図像からではない。図像については言及しないのか?」
東「自分が図像について語ると感想文みたいになってしまう。図像を語るなら、なるべく印象論ではない方法で語りたいが、難しいのでやらない」

東浩紀は「図像がないにも関わらずキャラが立ってしまうという現象に興味がある」と一貫して語っているのに対して、伊藤剛は、東浩紀に図像を語らせようとしていた。

伊藤「例えば樋上いたるについてはどうか?樋上の描く図像を美と思うか?(笑)」

伊藤剛はおもしろいところを突いたと思う。樋上いたる美少女ゲームの著名なクリエイターの一人(原画・キャラクターデザイン)。代表作は『AIR』。その作品は、決して上手いとは言えないにも関わらず感情をドライブさせてしまうという、極めて高い作家性を持つ。
これに対する東浩紀の発言は次の通り。

東「樋上いたるは良いが、そういう意味では美ではない。崇高という表現のほうが合っている」
伊藤「崇高?」
東「崇高というのは圧倒的なものに使われたりする表現。対して、美というのは基準が必要になって、基準との差異で表されるもの。その流れで考えると、樋上いたるはヘタで商品としてはどうかという感じがする(笑)しかし、美の基準そのものを変えてしまう力を持っている。よって、美ではなく崇高と表すのが適している」

というのが、東浩紀樋上いたる観のようだ。ちなみに、ここで崇高という言葉を持ち出したのは、樋上いたるの絵がパラダイムシフトを起こさせるような圧倒的なものであったという事実と、以下のような感情が合わさった結果だと思われる。

東「カントは黒髪の女が好きで、“黒髪は崇高だ”とか書いている。それを読んでバカだなと思ったので、こういうの(印象論)はやりたくない」

他方、この流れとは別だったが、次のような話題も持ち上がっていた。個人的には地続きの話題に見えるため、このダイジェスト版では同じ項目でまとめることにする。

東「何かを美にすれば、そこから外れるものは美じゃないということになる。(伊藤剛が)マンガ美を求めれば、マンガ総体を肯定はできなくなる。その一方で、キャラの美というのは、つまりデータベース消費の美ということで理解できる。しかし、これは去年、“でじこ”が我われの前に帰って来たことで駆逐されてしまった。これには泣いた」

以下、でじこについての解説。

東「“でじこ”とは“デ・ジ・キャラット”というキャラクターの通称。『動物化するポストモダン』でも触れたようにシミュラークルで形成されている。しかし昨年のアニメ化の際、人間として戻ってきた。シミュラークルだったのに、まったく面影もない」

これは『ウインターガーデン』という作品を指していると思われる。内容については次の通り。

東「物語は、でじこと拓郎という青年の恋物語でじこが拓郎に想いを寄せて、しかし、拓郎には別の女性の影が…と思ったらベタに拓郎の妹でしたというような、貧しい物語」

それについて東は何を感じたのか?伊藤が切り込む。

伊藤「新しいでじこは、90年代への批評というわけでもなかった?」
東「色々と考えながら見ていたけど、そういうものでもなかった」
伊藤「じゃあ何に泣いたの?」
東「恋物語に(笑)」

この日の対談がガチガチの議論ではなく、10年来の友人という両者のリラックスした対話だったことを表すようなエピソードだった。

3.キャラと断片化した物語

伊藤「キャラ、キャラ絵はどう成立するのか?と考えると、固有名と図像が必要になると思う。そして図像がキャラになると、物語の断片を引き寄せるという現象が起こると考えている。その物語は断片であるがゆえに複数化される(複数化=二次創作)。例として“えここ”を挙げる」

“えここ”というのはエアコン「エコアイス」のCMキャラクターで、正式名称は「アイスちゃん」だが、このように呼ばれることは滅多になく、“えここ”が通称となっている。キャラクターデザインは漫画家の渡辺祥智。(以上、Wikipedia調べ)

<追記>
伊藤剛のトカトントニズム、2007年6月11日のコメント欄にて伊藤剛氏より以下のご指摘を頂きましたので引用させて頂きます。
『「えここ」には、当初、固有名は付与されておらず「正式名称」というのは存在しないと認識しています。人々の間で固有名「えここ」が共有されて以降、二次創作的な想像力がより喚起された、という図式で考えています。』

伊藤「えここというキャラは、最初期はイラスト2点しかなかった。しかも名前がなかった。その後どのようにかして名前が与えられ、広まって、エコケットという同人誌即売会が開催されるようになった。つまりここでは、図像に固有名が与えられたことで物語の断片が引き寄せられていることが見られる」
東「物語が引き寄せられるのは、背後のデータベースに物語の断片が蓄積しているから。これを可能にしたのは物語からキャラへと変化した消費形態だろう」

この後、伊藤剛は「消費形態が変わった契機は固有名にあるのではないかと考えている」ということを言っていたが、別の話題に移ってしまって詳しくは聞けなかった。
契機が固有名にあるというのは、どういうことだろう?たとえば、“えここ”や“でじこ”のような、あまり現実とは関係のない名称(まんがやアニメの想像力)でキャラが名指されるようになったことが契機になっていると考えているのだろうか?もう少し掘り下げて聞いてみたかったので、残念というほかない。

4.まとめ
この日の対談で、東浩紀は「キャラは図像に依拠せずに成立する」、「キャラを成立させるためには物語を複数化させる空間が必要」だと語っていた。対して、伊藤剛は「キャラには図像と固有名が必要」で、「キャラが成立すると物語の断片を引き寄せる」と展開していた。

これを整理すると以下のようになる。

項目 キャラの成立要件 キャラと物語の関係性
東浩紀の見解 図像は不要 物語を複数化させる空間があってキャラがある
伊藤剛の見解 図像と固有名が必要 キャラの成立によって物語の断片が引き寄せられる

キャラの成立要件については両者で相容れないものとなっているが、キャラと物語の関係性では両者はおおよそ同じ方向を見ていると言える。違いとしては、東は環境ありきでキャラが生まれると考え、伊藤はキャラありきで物語ができると考えているという点だろう。

この対談で個人的に一番印象的だったのは、『らき☆すた』に対する東浩紀の発言「絵がキャラクターを立てる必要はなくなってきている」だった。

東が言及していたのはアニメ版だが、『らき☆すた』には原作があって、それは萌え4コマで、萌え4コマというのは、一般に『あずまんが大王』を嚆矢とする、キャラ萌えに特化していて4コママンガとしての起承転結やオチには必ずしもこだわっていない作品群のことだという。

東浩紀伊藤剛の発言をまとめることで、次のように考えることはできないだろうか?すなわち、キャラの成立が物語の断片=4コママンガの成立を引き寄せて、物語を複数化させる空間=二次創作を生む文化が成熟したことによってキャラという概念がいっそう駆動されて、萌え4コマが生まれた、と。以下でその流れを詳しく追っていこうと思う。

90年代になって、物語を複数化する空間(二次創作界隈)の成熟が加速し、オタク系文化はシミュラークルで溢れることになった。二次創作作家たちによる物語の複数化が促進され、データベースが肥沃になっていく。

その過程では、原作がもはやオリジナルではなく二次創作の素材になり、素材が次の原作の素材となるという循環を形成した。そこで、作家の神話性=物語の一回性を回復するための手続きが原作者たちには必要になったのではないかと考えられる。そして、その流れから生まれてきた想像力が、『ゲーム的リアリズムの誕生』で引用されている作品群だというのが、東浩紀の指摘だと思う。

ここで提起したいのは、萌え4コマというジャンルも同じような想像力によって駆動されているのではないかということだ。噛み砕いて言えば、「原作者自身が萌え4コマという手法を用いることで、あらかじめ複数化された物語(二次創作)を語っているのではないだろうか?」ということである。

萌え4コマは、二次創作として消費される前段階で自ら物語を複数化させてしまうことで、登場人物たちに物語を横断するというキャラとしての強度をあらかじめ与えている。さらに、4コママンガとして複数化された物語は全体でひとつの作品であるというメタフィクショナルな構造を持つ。そこでは、作者自らがあらかじめ物語を複数化させておいて、後にそれをひとつの作品として収斂することで、その一回性を回復しているという手続きが垣間見える。そしてこれは、東が『ゲーム的リアリズムの誕生』で触れていた「マルチエンドをどう文学的に処理するか?」という問題系にもつながってくるのではないかと考えられる。(手法が4コマではなく萌え4コマである必然性は、萌えがデータベース消費と密接に関わっていることに依拠する)

萌え4コマを、“あらかじめ物語が断片化された物語”として捉えることで、東浩紀の『らき☆すた』に対する発言はクリアに見えてくる。「図像がキャラクターを立てる必要がなくなってきているように思える」とは、裏を返せば、図像を根拠としないキャラの区別が可能となりつつあるということに他ならない。それはつまり、原作の時点で物語を複数化させている、それを許容する空間が我われの目の前に存在しているために、アニメ版の『らき☆すた』が図像に依らないキャラの強度=物語横断性を備えていたとしても、なんら不思議はないのではないかということである。

このように、「『テヅカ・イズ・デッド』から『ゲーム的リアリズムの誕生』へ」を通して、萌え4コマというものはキャラクター文化を語る上で重要なファクターなのかもしれないという考えに到っている(この考えでは、コンテンポラリーなコンテンツには追いつけていない可能性が高いが)。こういった考えを得られたという点では、本筋とはいくらか逸れたような気もするが、非常に示唆に富んだ対談だったと思う。