新海誠 / ほしのこえ

これはやばい。この作品に感動してしまったという事実を俺のリアリティとして相対化しなければならないという思いに駆られて以下の通りキーボードを叩きまくった。映像面については、『コンテンツの思想』あるいは『波状言論』に収録された新海誠×西島大介×東浩紀の鼎談が詳しいので、ここでは「なぜ『ほしのこえ』は感動的な作品として我われに消費されるのか?」ということを分析していく。


なぜ『ほしのこえ』は感動を誘うのか。どうして我われは、“相手不在のコミュニケーション”で「私は(僕は)ここにいるよ」というラストシーンにリアリティを感じてしまうのか。それは、「ここにいるよ」というメッセージが我われというフィルターを通したときに作者の意図を離れて乖離し、我われはその乖離にこそ叙情性を見て、感情を揺さぶられてしまうからに他ならない。以下でそれを追っていく。なお、“相手不在のコミュニケーション”についてもその過程で触れていくことにする。
2000年以降、携帯電話は一般常識とでもいえるくらいに普及した。通話とインターネットを可能とする持ち運び可能なデバイスの登場によって、場所と時間を問わずに誰かと即座にコネクトし、コミュニケートすることが可能となった。この事実にもとづいて、『ほしのこえ』では、携帯電話がタイムリーなコミュニケーションを象徴する小道具として用いられている。
しかし新海誠は、ミカコとノボルを戦争で引き裂く。国連宇宙軍のメンバーに選抜されたミカコは宇宙へと旅立ち、ノボルは地上に残される。これによって携帯電話はその特有のコミュニケーション機能を喪失する。メールのやり取りに、地上にいた頃とは比べ物にならないくらいの時間が必要となる。二人の間に横たわる距離は、彼らのコミュニケーションを断片化していく。その過程は双方向的なコミュニケーションから“相手不在のコミュニケーション”への変容である。
シリウスまで到達したミカコのメールは、受信者であるノボルを見ていない。それは8.7光年という距離が携帯電話のコミュニケーション機能から即時性を喪失させたからだ。8年というスパンは会話のキャッチボールには適さない。そのため、当初インタラクティブなやり取りであったメールはミカコの一方的な感情の発露へと変貌せざるを得ない。それを表すように、シリウス周辺まで移動したミカコはノボルを好きだとメールで伝えるが、この流れはそれまでのメールのやり取りとつながっているようには見えないし、脈絡がないのだ。このように、ミカコとノボルのやり取りは“相手不在のコミュニケーション”となっていることが見て取れる。
ラストシーンでミカコとノボルの声--「私はここにいるよ」「僕はここにいるよ」--が重なることも作品の手法、つまり演出として重ねられているだけで、これも相手不在のコミュニケーションである。なにも、作品の最後にご都合主義的な奇跡が起きて、彼らの願いが8.7光年を超越したわけでは決してない(この点は前述の鼎談で新海誠自身が語っていることを参照してもらいたい)。実際は地球とシリウスでミカコとノボルがそれぞれ発信した想いでしかなく、彼らのメッセージはお互いに届くことはない。二人は最後までコミュニケーション不全のままなのだ。つまり『ほしのこえ』は、ミカコとノボルの関係にとって実に救われない話だと言える。それでも我われが『ほしのこえ』に感動してしまうのは何故なのか?以下でそれを解析していこう。
8年越しのメールがノボルに届いて地上に雪が降り出してからのミカコとノボルのやり取りは、演出の上では会話のようにかみ合っているが、実際は地球とシリウスに引き裂かれた彼らの単なるモノローグの応酬でしかない(作品における21分以降の展開)。このシーンこそ相手不在のコミュニケーションの最たるものだ。お互いを想う気持ちも「ここにいるよ」というメッセージも8.7光年離れた二人の間では届くことがない。我われ観測者はその願いが決して届かないことを知っているからこそ、二人の想いを悲痛なものとして受け止める(ギャルゲー空間のジャーゴンで表現するならば、これは“泣き”だ)。
けれど、作品に対してキャラクター視点と同時にメタ視点に立つこともできる我われは、相手不在のコミュニケーションをインタラクティブなものとして置き換えることが可能である。その場合、彼らの言葉は届かないと同時に届いていることになる。つまり、こう言うことができるだろう。「モノローグが連続するシーンは相手不在のコミュニケーションであるにも関わらず、我われ観測者の目には会話のキャッチボール=インタラクティブなコミュニケーションとして写ってしまう。そして、ただひとつの作品から無数のメタ物語を抽出することができる我われの消費環境は、そのような読み込みを許してしまうのだ」と。(“泣き”に倣って言えば、こちらは“感動系”ということになるだろうか)
シリウスと地球に引き裂かれた二人の声は決してお互いに届かないが、その願いはこの作品を見ているポストモダン的な我われを交差点として出会う。だからこそ、単なるモノローグの連続でしかないシーンが、まるでミカコとノボルの間に奇跡が起きて8.7光年を短縮して会話が成立しているかのように受容できてしまうのだ。ここではコミュニケーション不在の中でのコミュニケーションとでもいうべき矛盾した状況が見られる。
ほしのこえ』の叙情性は、ミカコとノボルの届かない願いを悲恋劇として実感することと、その届くはずのない願いが我われの視点からは届いているかのように感動的に錯覚できるというメタ物語的な詐術のせめぎ合いの上に成り立っている。『ほしのこえ』のラストシーンは、「決して届くことのない二人の想いに悲しみながらも、届かない想いが奇跡的に届くというメタ物語を生み出して、それに感動してしまう」という自己矛盾を同時に発生させる。この解離性が観測者の感情をドライブするために、荒唐無稽でリアリズムの希薄な『ほしのこえ』のセカイに我われはリアリティを感じてしまうのだ。
しかしながら、実はこの読み込みは新海誠が意図したものではない。繰り返しになるが、作者自身の考えについては鼎談を参照すれば知ることができるし、そこで彼はこのラストシーンの意味を語っている。しかし、それについてここで言及するつもりはない。ここで重要なのは、意識的にせよ無意識にせよ、我われのポストモダン的な消費態度が上記のような『ほしのこえ』の読み込みを決定付けているということだ。
作品の観測者である我われは、ミカコとノボルの1年や8年に分断されたメールのやり取りを横断的に見渡すことができるし、それを好みのメタ物語に改変して受容してしまうこともできる。つまり、相手不在のコミュニケーションをインタラクティブなコミュニケーションに置き換えて、いくらでも都合よく作品を読み替えてしまうことが可能となっている。もっと言ってしまえば、我われのポストモダン的消費環境はそれを許す土壌をすでに獲得しているし、そうすることを促しているのだ。
ほしのこえ』は、セカイ系的ガジェットを振りまいて、作品本来とは異なる感動的なメタ物語を読みやすい環境を提供している。そして我われは自覚的であるか否かを問わず、それに従ってしまう。それこそが、この作品を感動的なものとしている根本的な原因に他ならない。