過去と未来をつなぐポストモダン - 『時をかける少女』論考 -

時をかける少女 限定版 [DVD]

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この作品には数多くの主題が見え隠れしている。第一に物語的主題、つまりストーリーレベルでのテーマがいくつも語られている。そして第二に構造的主題、簡単に言ってしまえばストーリー以外でのテーマが作品を貫くバックボーンとなって表れている。数多くの主題が編み上げられることによって、この感動的な現代版『時をかける少女』が構成されているといえる。しかし以下では、議論が発散してしまうことを避けるためにも、物語的主題と構造的主題の根幹となる部分/最も重要な箇所のみを取り上げて注目していきたい。


1.物語的主題
真琴の時間移動はタイムリープという言葉で表現されているが、実際には作中で本人が言っているように“リセット”と表されるのが適している。というのも、彼女のタイムリープが過去に向かうばかりだからだ。何か失敗したら、それをなかったことにしてやり直す。タイムリープを手に入れたばかりの真琴は、過去はいくらでも改変可能だという態度をとって無自覚に時間跳躍を繰り返していた。

我われの現実では時間は有限で不可逆なものであるが、ガジェットとしてタイムリープが導入されたこの作品ではその前提が覆っている。それは無数に存在する選択肢を気に入るまで何度も選び直すことができるという意味である。我われは真琴がタイムリープを何気なく何度も繰り返すさまを見ることで、この作品では時間に可逆性があると認識してしまう。しかし、物語の終盤でタイムリープが回数制限にもとづいているという事実が明らかになり、そこで改めて時間の希少性が浮き彫りになる。

以上のような意味で、『時をかける少女』は限りある時間の大切さを我われに問いかける作品だと捉えることができるが、それではいくらか単純すぎる。ここで指摘したいポイントは時間の有限性よりも、真琴がタイムリープで過去にしか時間跳躍していないという点である。

千昭が物語のラストでそうしたように、タイムリープによって未来へも跳べるはずなのだが真琴は何故かそれをしない。せっかくの時間跳躍能力を手に入れても、彼女は過去の改変に忙しくするだけだった。間違いをやり直すことで失敗をなかったことにする―つまり、ここでは現実をリセットするためだけにタイムリープが使われている。

そのように、真琴は過去だけを見ていた。しかし千昭のタイムリープを復活させるために使われた最後のタイムリープで、彼女は過去ばかりを見ることをやめた。リセットを失うことで、自分の現実としっかり向き合うようになる。それを表すように真琴は、魔女おばさんが修繕した絵画を千昭のいる未来まで残すことが自らの責任だと宣言し、物語のラストでは功介に対して自分のやるべきことを見つけたと語る。(ここで見てきた“未来へと絵画をつなぐリレー”は、別の重要な意味も含んでいる。それについては後々触れることにする)

このように、過去を後悔せずに受け入れて未来に向かって走ることが、この作品の根幹となる物語的主題といえる。それは、現在とは過去からの地続きであり、そして未来へと連なっていく中間点であるという認識だ。自らの進路を決めて前に目を向け始めた真琴は、過去に向かって時をかける能力を失う代わりに、未来に向かって時をかける少女として、希望に満ちた輝きを放つ。

2.構造的主題
他方、構造的主題に目を向けると、そこにはこの作品がポストモダンにおけるオタクたちの現実を肯定する姿勢が見えてくる。

ポストモダンにおいては、オタクたちはただひとつの物語から別の物語が生み出して消費している。それをメタ物語と呼んでも二次創作と呼んでも構わない。それは、それを生み出した自己だけの物語であって、オリジナルとは関係のない存在だ。しかしオリジナルを否定するわけではないし、他者が生み出したメタ物語/二次創作を否定するものでもない。そこには上位や下位といった階層構造の関係があるわけではなく、すべてがフラット、つまり並列で等価に消費されていく。乱暴にまとめると、これがポストモダンにおけるオタクたちの消費態度だといえる。

この構造は、『時をかける少女』のタイムリープとよく似ている。

この作品でのタイムリープには問題が多い。特に気になるのは、真琴がタイムリープしたとき、本来であればその時間軸上に真琴は二人いなければならないのだが、実際には真琴は常に一人であるという点だ。これでは、タイムパラドックスに対してあまりに無自覚な振る舞いだといえる。そこでは、以下のような問題が浮上してくる。

  • 真琴がタイムリープした時間軸に元々いたはずの真琴はどうなってしまったのか?
    • この場合、元の真琴は消えている。消えてしまうことでの矛盾についてこの作品は頓着がない。(カラオケのシーン参照のこと)
  • 真琴が常に一人なら、彼女がタイムリープした後に取り残された時間軸には真琴は存在しないのではないか?
    • このパターンについては作中では触れられていない。その時間軸はそのまま停止してしまうのではないか、あるいはそのまま別の真琴がその世界を継続させるのではないかといったことが考えられるが、ここではまったく意味がないことなので論じない。なぜなら、ここで重要なことはタイムリープと真琴の扱いだからだ。

しかし、これらをポストモダン的な構造として見ればそのような指摘を回避することができると考えている。以下でそれを追っていく。

東浩紀自身のブログで指摘していた通り、この作品のタイムリープは時間跳躍というよりもゲームのリセット、それに伴うセーブポイントへの帰還と考えるほうが合理的で説明がつきやすい。つまり、『時をかける少女』の世界では時間が一直線に並んでいるのではなく、真琴がタイムリープをするたびにゲームプレイが生成され、並列世界が発生していると捉えるほうが矛盾がないということである。

この構造はオタク系文化における二次創作に類似している。なぜなら二次創作とは、元はひとつの作品から派生した物語でありながらそれぞれがオリジナルとは関係のない独立した物語でもあり、独立しているがゆえに別の二次創作との間に発生する矛盾を許容するからである。

真琴がタイムリープするたびに矛盾が発生しているという追及は、この作品のタイムリープが実は二次創作的な振るまいなのではないかという指摘によって意味を消失させることができると考えているが、これではまだ弱いということも自覚している。そこで、この論点を補強するために次の考えを導入したい。ポイントは“真琴の身体性”についてである。

先に述べた通り、『時をかける少女』の世界で真琴は唯一の存在である。タイムリープ発生後も彼女だけは記憶を継続させて、その唯一性を失わない。しかし他の登場人物たちは違う。彼らは真琴がタイムリープしたことにすら気付いていない。つまり、異なる並列世界の存在を知らないということである。

真琴だけに許されたこの作品横断的な振るまいは、東浩紀が指摘するゲーム的リアリズムと合致する。彼女だけが『時をかける少女』全体を見渡せる存在であるということは、真琴をキャラクターでありながらプレイヤーと見なすことができると言い換えることもできるだろう。この点でも、『時をかける少女』がオリジナルと二次創作の関係性に似た、二階層の構造を持っていると指摘できる。

そして、改めて指摘するまでもないことだが、細田守による『時をかける少女』は筒井康隆による原作とはまったく異なったストーリーである。オリジナルの要素を多少引用してはいるが、個々のエピソード自体を引用しているわけではない。言い換えるならば、オリジナルの要素を引用しつつ別の物語を語っているということになる。つまり、現代版『時をかける少女』は、オリジナル『時をかける少女』のトリビュート、あるいは二次創作とでもいうべき立ち位置にいる。つまりここでも、オリジナル(筒井康隆の原作)に対する二次創作(現代版『時をかける少女』)という二階層構造が見られる。これも、上記の論旨を補強する材料になるだろう。

このように、現代版『時をかける少女』ではタイムリープのたびに世界が複製されると考えれば、この作品はポストモダン的な物語の生成や消費態度を体現していると指摘できる。

3.『時をかける少女』が伝えるメッセージ
さて、ここまで物語的主題と構造的主題について見てきたが、以上の流れをひとつにまとめることで、物語的主題と構造的主題を貫く柱とでもいうべきテーマが見えてくる。

タイムリープによる過去の否定”を繰り返した真琴が、それをやめる勇気を手に入れ、千昭のいる未来へと絵画を残そうとするという一連のストーリーの流れからも理解できるように、この作品の物語的主題は“過去から連なる現在、未来へとつながる現在”である。

現在という観測点なしに過去と未来は存在し得ない。作品中での最重要モチーフである“魔女おばさんが修繕した絵画”は、千昭のいる未来には存在しない。これは過去と未来が現在によって寸断されていることを表している。真琴は千昭のためにこのリレーを途切れさせないことを誓う。ここでの真琴の意思は、過去を改変することで現在を良くするのではなく、未来を良くするために現在で努力をしなければならないということである。その前向きなメッセージこそがこの作品の物語的主題である。

これを構造的主題から捉え直してみよう。作品中では指摘されることのない要素だが非常に重要な点がある。それは、“魔女おばさん”とはオリジナル『時をかける少女』の主人公である芳山和子だという点だ。“おばさん”というキャストが別に存在しているために“魔女おばさん”と混同してしまいがちだが、それはミスディレクションである。キャスト上には芳山和子が存在しているし、彼女こそ“魔女おばさん”だ。これが意味するところは次の通りである。

現在から未来へと絵画を残すことができていないため、千昭は絵画を見るために未来から現在へとタイムリープしてきた。他方、過去から現在へと絵画を受け渡したのは、絵画を修繕した“魔女おばさん”こと芳山和子である。そして、芳山和子はオリジナル『時をかける少女』から現代版『時をかける少女』へと、つまり過去から現在へとタイムリープをしてきたとでもいうべき存在だ。

ここではそれぞれ、未来からやってきた千昭が未来を象徴し、現代版『時をかける少女』の主人公である紺野真琴が現在を象徴し、そしてオリジナル『時をかける少女』の主人公である芳山和子も同じように過去を象徴していることが明確に見て取れる。

リレーのバトンに見立てられた絵画を、芳山和子から紺野真琴へと引き継ぐ。ここでいう絵画とは、過去から受け継がれてきた先行作品のメタファーである。過去の作品を現在へと残すということ、つまりこれは、筒井康隆による『時をかける少女』を現在へと受け継いだ、細田守ら現代版『時をかける少女』製作者たちの想いである。それと同時に、真琴が絵画を千昭のいる未来へと残そうとする意志は、この現代版『時をかける少女』がきっと未来まで届くだけの力を持っていて、自分たちの未来につながると信じている、製作者たちの情熱だ。

このように、絵画を中心とした視点では物語的主題と構造的主題がともに希望に満ちたメッセージを持っていることがわかる。『時をかける少女』では、真琴と製作者がともに前を見て力強く未来に向かおうとしている姿が描かれており、それこそがこの作品を感動的なものとしている。