東浩紀+いろんな人著『コンテンツの思想』読了
- 作者: 東浩紀,伊藤 剛,神山 健治,桜坂 洋,新海 誠,新城 カズマ,夏目 房之介,西島 大介
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2007/03/01
- メディア: 単行本
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「二次創作を許容するポストモダン的創作環境は、なんでもアリなだけに『固有名』がいちばん重要なのではないか。本来は物語があってキャラクターがあるという階層構造だが、現状を見るに、まずキャラクターのレイヤーがあってその上を物語のレイヤーが覆うと考えたほうがポストモダンの創作手法を読み解くとき、すっきりしそうだ」という東浩紀の主張はクリアでなかなかおもしろかった。
はてなWordLinkは東浩紀の実感にすごく似ていると思う。俺は『西島大介』『新海誠』というキーワードをそれぞれ登録しているんだけど、俺個人のWordLinkではこの2つの固有名は間に彼らの作品を通してリンクされている。つまり「西島大介<=>凹村戦争<=>ほしのこえ<=>新海誠」という連想を成立させているわけです。このときの各キーワードが固有名で、連想的なリンクが物語のレイヤーの役割だと考えてもらえれば分かりやすいでしょう。そうすると東浩紀の考えに沿って、「文脈があってキーワードがある」のではなくて「キーワードありきで文脈が生まれる」という意味ではてなWordLinkを読むことができますね。こういった状況について東浩紀は以下のように語っています。
けれども、固有名でしか繋がっていないコミュニケーションというのは、一体感はないけれども、そういう齟齬(註:認識している文脈の差異によるコミュニケーション齟齬)が生まれない分、広がっていく可能性を備えている。解釈が違っても、文脈を共有しなくても、そうかおまえのアムロ・レイはそういうやつなのか、と互いに並び立つ余地がある。それが固有名の機能だと思うし、考えてみればオタクの二次創作ってそういうものですよね。コミケにしろネットにしろ、知識は共有していても文脈は共有しない、そういうコミュニケーションの場としてあると思うんです。(P.198)
あの空間でせっせとキーワードを登録している人なら共感してくれると思うけど、はてなWordLinkってのは、東浩紀が言うところのポストモダン的なコミュニケーションを極端にした運動と考えることもできるなあと思った次第です。というかこんなの別にどうでもよくてですね、個人的に引っかかりを覚えたのは、先述の「キャラクターのレイヤーがあって物語のレイヤーがあるのではないか」と東浩紀が指摘した点です。ネットやコミケといった限定的な空間ではそうなのかもしれないけど、文学や物語に関してはどうかなという感じです。この点、あまり踏み込めていないように思うので、次回はここをポイントにしてグダグダ書いていこうと思います。