西島大介 / 夏の彗星

西島大介 島島 『夏の彗星』

まずはリンク先にある1点のイラストを見てきて欲しい。『夏の彗星』と題された西島大介のこのイラストには、彼の高い作家性が表れている。彼の作品はその表層だけを手にとって眺めてみて、何だか意味がよく分からないまま、キャラがかわいいという理由で何となく消費されてしまうということが多いように思う。このイラストも例外ではないだろう。しかし、ここには批評的な視点で語られるべき優れたイマジネーションが込められている。

あなたはこの、一見してどこまでも地味な1枚のイラストに何を見るだろうか。青空。大きな雲。山の稜線。傘(日傘?)を差す女の子(たぶん)。草むら。セミの鳴き声。確かに『夏』かもしれないけれど、『彗星』なんてどこにも見当たらない。イラストとタイトルは一致していないように思える。しかし、そこで思考停止してはいけない。我われはこのイラストから無限の想像力を受け取ることができる。

西島大介がこのイラストに込めたイマジネーションとは、端的に言って、「見えているものだけがすべてではない」というごくシンプルなクリシェだ。あるいはこう言い換えてもいいだろう。「当たり前のことを当たり前と思って終わりにせず、それを不思議に思うような瑞々しい感性を持ち続けることの重要性を、西島大介は我われに問いかけている」と。

『夏の彗星』を見てみよう。

夏の強い日差しの中なので空は青くて明るいから、はっきりと見ることなんてできない。けれど、この瞬間も大気の向こうの宇宙空間では無数の星たちが煌いていて、彗星が長い長い尾を曳きながら流れてゆく。見えないからといって、太陽の光の中で星がどこかへ消えてしまうわけではない。星は、見えないだけで確実にそこにある。彼女はその見えざる彗星を眺めている。『夏の彗星』はそんな光景を切り取っているのだ。

人によっては、宇宙の向こうから地球に落下してくる巨大な彗星が見えるのかもしれない。あるいは単純に、この少女の背後の空に彗星が流れているという光景が見えるのかもしれない。それとも、彼女が人知れず流している(かもしれない)一筋の涙を、彗星に見立てているということもあるかもしれない。というのはやっぱり全部違っていて、『彗星』というのはこの女の子を指す固有名なのかもしれない。夏の彗星ちゃん。

そういう、見えないものを想像する力こそが重要だと西島大介はこのイラストで語りかけてくる。タイトルには表れていても、イラストには見ることができない『彗星』。西島大介は、『夏の彗星』と題されたこの作品にあえて彗星を描かないという乖離的な手法を導入することで、そこに批評的な側面を持ち込むことに成功している。そして、その技法は我われの想像力を否応なく喚起する。

「どんな鳥も想像力より高く飛ぶことはできない」とは寺山修司の言葉だけれど、西島大介のこのイラストもそれと同種の感性に基づいている。我われのイマジネーションは宇宙のように果てしなく広がっていくことができる。西島大介が見ているように、はるか大気圏の向こう、そこに流れているだろう彗星に託して。