近況とこれからのこと

タイトルどおりの近況です。最近なんだか憂鬱なのでこのブログも元気がないです。

  • 創作関連

文フリに向けて短編を書いています。締め切りまで1週間を切っているわけですが、まだイントロまで。それももしかしたら書き直すかも。という感じでいまいち気分が乗ってこなくて困っているのですが、いろいろな意味で失礼のないようなレベルにまで作品を引き上げるつもり。なので残りの時間は可能な限り創作に向けるくらいの意気込みです(かぎりなくテンションの低い意気込みだ…)。このエントリ書き終わったらまた作業再開します。いったん火が付けば一気呵成に仕上げられると前向きに期待しつつ。

  • 音楽

世界は素晴らしい音楽で溢れている。最近、自分が思っているよりも音楽が好きで好きで仕方ないんだということを痛感しています。音楽は俺の心を果てしなく豊かにする。そこで、かつてギターを担いで過ごしていた日々のようにいま再び音楽に接したいなという思いが強くなってきています。聴いてるだけじゃ我慢できなくなりつつあるわけです。これを解消するためにDTMについて調査中。初音ミクのおかげでこの分野も盛り上がっているように思うので、自覚的にムーブメントに乗ってみるのも楽しそうです。

それとは別に初音ミクについてはエントリをひとつばかり書こうと思っています。俺が書くとキャラクター消費関連になりそうですが、そうではなくて、肉体と楽器、楽器とソフトウェア、肉体と初音ミクな話になると思います。

  • 批評

文フリの執筆が終わったら舞城の批評を仕上げます。舞城は相変わらず迷走を続けているけれど、彼に関する批評とか消費は盛り上がったらいいなと思っています。

文芸にもっとコンピレーション・アルバムのコンセプトを

Radio 1 Established 1967

Radio 1 Established 1967

長めのエントリなので最初にサマリーを。このエントリではまず個人的なコンピレーション・アルバムについての考えを書いて、その後に文芸にこの考えを導入できたら…という妄想を展開している。それでは以下、本文。

コンピレーション・アルバムというやつは優れものだ。多様なミュージシャンたちの作品を1枚のディスクに詰め込んでパッケージしたそれは、より深い、あるいはより広い音楽への入り口となる。パッケージされるときの軸はそれこそ多様だ。ロックやパンク、エレクトロニカやジャズなどのジャンルでミュージシャンたちに横串を刺すこともあれば、特定のレーベルに所属しているミュージシャンを1枚のディスクにまとめることもある。

この『Radio 1 Established 1967』はBBC Radio 1が設立された1967年から2006年まで毎年のヒット曲を1曲ずつ計40曲、現在売り出し中あるいは有名なミュージシャンたちがカヴァーするというコンピレーション。The FratellisによるJimi Hendrix、The StreetsによるElton JohnFoo FightersによるPaul McCartney & Wings、KasabianによるThe Specials、Lily AllenによるThe Pretendersのカヴァーなど、それぞれ独自の解釈があったりオリジナルに忠実だったりで聞いていて楽しめる。他にもHard-FiBritney Spearsの”Toxic”にチャレンジしていて、これがけっこう良い仕上がりになっている。リチャード・アーチャーのヴォーカルがブリトニーのオリジナルに忠実であろうとしていて微笑ましい。

このコンピレーションのポイントは2つある。1つ目のポイントは、このディスクが、今が旬のミュージシャンたちに触れる機会になっているということ。多様なメンツがそれを証明している。

先述した以外にもKaiser ChiefsAmy Winehouse、KT TunstallにFranz Ferdinand、さらにはGossipとRazorlight、加えてKlaxonsやThe Enemyらが参加しているし、ここに挙げた以外にもまだまだたくさんのコンテンポラリーなミュージシャンの名前を見つけることができる。そしてそこには多様性がある。UKもいればUSもいる。ロックもいればグライムもいる。ここに挙げられたミュージシャンたちにコンテンポラリーという以外の統一性はない。だからこそこのディスクは、ふだんの自分の興味の外にあるミュージシャンの音楽に触れる機会となりうる。

そしてもう1つのポイントは、このディスクが過去の名曲たちに出会う機会になっているということだ。

多様なミュージシャンたちがプレイするのは自分たちのオリジナルではなく、あくまでカヴァーだ。カヴァーされるミュージシャンは、先述した以外でもThe KinksRoxy Music、The UndertonesにThe Jamなど。MadonnaもいればMary J Bligeもいるし、JamiroquaiにREMにJustin Timberlakeとけっこう節操がない。この中にはロック好きは手を出さないようなミュージシャンもいるだろうし、逆にふだんロックを聴かない人にとってはよくわからない名前も多いと思う。その筋では有名でも、例えばThe Undertonesなんて聞いたことがないという人だっているだろう。しかもそれぞれの曲がヒットした時代は1967年から2006年に渡っている。ジャンルと時代。このディスクは、そういう混ざりにくいものを混ぜ合わせている。

これら2つのポイントから、このコンピレーション・アルバムは、カヴァーする側とカヴァーされる側が様々な*1ジャンルから引用されていて、かつ時代にも広がりがあるという多様性に富んだものになっていると見て取ることができるだろう。

このアルバムには年代やジャンルの異なる多くの音楽に向けたリンク先が用意されている。ここからコンテンポラリーなミュージシャンたちを渡り歩くことも、未知のジャンルを旅することも、カヴァーされた作品の原典にあたることも、そこからさらにリンク先を探すこともできる。このアルバムからは、そういった音楽の豊潤な楽しみを得ることができるだろう。

一方で、逆の指摘をできる部分もある。

ここまで書いていて、このコンピレーションに収録されているのに意図的に名前を挙げなかったバンドが2つある。それぞれカヴァーをしているバンドとカヴァーされているバンドなんだけれど、前者がThe Viewで、後者はThe Libertines。このディスクでThe ViewはThe Libertinesの”Don’t Look Back Into The Sun”を披露している。この組み合わせ、UK好きは反射的に狂喜するレベルだけど、このコンピレーションの中では最も意外性がない。というのもこの2つのバンドはほぼ同時代のバンドで、なおかつ同ジャンルに属しているからだ。しかもThe ViewはThe Libertinesのファンで彼らから影響を受けているとほぼ間違いなく言える。だからこの組み合わせから辿ることのできるリンク先は、このアルバムの収録曲中、最も少ないものになるだろう。

しかし裏を返せば、The Viewによる”Don’t Look Back Into The Sun”からは、このアルバム中で最も純度の高いロックンロールが鳴っていると感じることもできる。これは、時代とジャンルの照準を”2000年代のUKロック”に合わせたことで生まれている。だからこのカヴァーはこのアルバムの特異点でありながら、同時に最高到達点だと言えるだろう。


Don’t Look Back Into The Sun performed by The Libertines

ここまでが前フリ。

思うんだけれど、文芸にこういうコンピレーション・アルバム的なものがもっとあれば俺は嬉しい。もちろん文芸誌がその機能を持っていればいいんだけれど、文芸誌は連載が多く読み切りが少ない。自分の知らないジャンルの小説や多くの作家の作品に触れて、そこから多くのリンク先を見つけて世界を広げたいという欲望を解消するために文芸誌に手を伸ばしても、あまり有効な効果は得られないだろう。こういう目的の元での文芸誌は、時間にせよ費用にせよ労力にせよ、コストばかりかかり過ぎてリターンは少ない。

だからもっとコンピレーション・アルバムに近いイメージの媒体が欲しい*2。気軽にアクセスできるように、すべて短編もしくは中編で、読み切り作品であること。有名無名あわせて多くの作家の作品が掲載されていること*3。ジャンルはひとつに絞らないで横断的だと最高だ。どこかにそんな媒体はないだろうか。

俺が抱いているイメージに最も近いものは実は初期ファウストだったりする。

新伝綺を打ち出す以前のファウストは、軸は太田克史だけという、良く言えばフレキシブルでハイブリッドなものだった。まだ舞城王太郎西尾維新佐藤友哉を共通項として括るものはメフィスト賞だけで、ファウスト系なんて言葉もなかったころ(もはやそれすら聞くこともなくなったが)、ファウストは”舞城と西尾と佐藤のための雑誌”だった。メフィスト賞の熱心なフォロワーは3人それぞれの作品を読んでいたのかもしれないけど、基本的に3人とも作風が違うし、読者層はあまり被らなかったのではないかと思う。というのは個人的な経験をベースに書いているだけなんだけど。俺は舞城は読んでいたけど興味がなかったので他の2人の作品には触れたこともなかった。

だから俺のファウスト購入動機は舞城だけだった。ただ舞城の『ドリルホール・イン・マイ・ブレイン』を読みたくてファウストを買った。そしてそこで佐藤や西尾の作品に触れ、東浩紀を知った。そうやって世界が広がっていく光景は、俺がコンピレーション・アルバムに接するときと同じものだった。俺はリンク先を一気に10個も20個も獲得したような気分だった。高揚した。

しかし以降のファウストからは、そういったものを感じ取りづらくなってしまった。これは俺の慣れという問題だけじゃないだろう。新しく迎え入れられる作家はジャンル横断的ではなくなり、規定路線から外れない人選に思えた。その路線を深く潜るにはいいのだろうが、そういうのはファウストで見つけたリンク先を自分で辿っていけば誰にでもできることだろうと思う。確かに、ビジネスなので売れるものを作らなければならず、そういう意味では新伝綺にしろ何にしろファウストは正しいとしか言いようがない。しかし。

今のファウストに俺が勝手に期待するようなコンピレーション・アルバム的な機能は備わっていない。もちろん備わっていないというだけでそれが悪いとはまったく思っていない。ただ、そんな媒体*4がもっとたくさんあれば読者は多様な想像力に気軽に触れることもできるし、もっと文芸を取り巻く想像力は循環するのではないか。加えて、新規作品だけではなく、先人たちが遺してくれた過去の作品まで網羅するようなものがあったらおもしろいものになると思う。俺は頭の隅の隅の隅のほうでそんなことを夢見ている*5

*1:といってもメインストリームに絞られているわけだが

*2:この問いに対してウェブという回答もあるだろうが、対象範囲を職業作家の作品にしたいと思っているので、例えばブログなどはここでは検討しない

*3:そもそも作家の絶対数が少ないという問題とか版権の問題もあると思うが

*4:そんな媒体が多くない理由は、売れるかどうかの問題に集約されそうだけど

*5:文芸と音楽を同じように見ようとすることに無理があると言う方もいるだろうと思われますが、せっかくなので無理なほうを想像してみました

Klaxons / Gravity’s Rainbow - Soulwax Remix


Klaxonsの”Gravity’s Rainbow”をSoulwax a.k.a. 2many Djsがリミックス。個人的にはオリジナルより断然こっちのがむちゃくちゃ最高カッコいいのでさすがって感じです。ただ、貼り付けたyoutubeのヴィデオはいいところでぶった切られてしまってるので俺としては”Gravity’s Rainbow”のシングルに収録されたバージョンで我慢するしかないわけで…どう考えてもyoutubeにあげられたやつのほうがカッコいいな。これ聴けたことを公開してくれた人に感謝。

『ゼロ年代の想像力』が用意した90年代とゼロ年代の対立軸

S-Fマガジン 2007年 10月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2007年 10月号 [雑誌]

相変わらずの周回遅れだが、第4回を読んだので言及しておこう。
ゼロ年代の想像力』に関しては、第3回までを読んで『自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム - 宇野常寛の見落としているもの』というエントリで東浩紀宇野常寛両氏の噛み合っていない部分を指摘した。第4回もあまり進歩的な内容ではなかったので当ブログの基本的なスタンスも変わらない。両氏は相変わらず噛み合っているようには見えない。というか、宇野氏は東氏に上手く噛みつけていない。これが今のところの結論だ。

ただ、逆の視線を用意することは意外と簡単にできる。すなわち、どこに軸を置けば彼らの対立構造を素直に読み込むことができるのか、ということだ。今回はそれを試みたい。

そもそも宇野氏は東氏と言ってることがあまり変わらないという感じがする。そこにあるのは"データベース消費"と呼ぶか"原理主義的なバトルロワイヤル"と呼ぶかの違いだけでしかないのではないだろうか。例えば、以下は宇野氏のゼロ年代的バトルロワイヤルに関する主張であり、『ゼロ年代の想像力』第2回からの引用にあたる。

そして社会のあちらこちらで、こういった「あえて中心的な価値観を選択する」、つまり「信じたいものを信じる」という態度が広まっていった結果、醸成されたものが2001年ごろから顕在化する「9.11以降のバトルロワイヤル状況」である。この呼称を安易に使用するのは躊躇われるが、2001年9月11日のアメリ同時多発テロイスラム原理主義者」によって担われたことはそれを端的に示している。9.11に起こったのは「虐げられる弱いものが虐げる強いものに噛み付いた」事件ではなく、これからは無数の「小さい存在」同士が「自分の信じたいものを信じて」戦うバトルロワイヤルの始まりを告げるものだったに違いないのだ。

宇野氏はこれをゼロ年代的な特徴だと指摘している。しかし、この認識については東浩紀氏の読者であれば何ら目新しいものではないだろう。まずはポストモダンについて簡単に押さえておこう。

ポストモダン化は、社会の構成員が共有する価値観やイデオロギー、すなわち「大きな物語」の衰退で特徴づけられる。18世紀の末から1970年代まで続く「近代」においては、社会の秩序は、大きな物語の共有、具体的には規範意識や伝統の共有で確保されていた。ひとことで言えば、きちんとした大人、きちんとした家庭、きちんとした人生設計のモデルが有効に機能し、社会はそれを中心に回っていた。しかし、1970年代以降の「ポストモダン」においては、個人の自己決定や生活様式の多様性が肯定され、大きな物語の共有をむしろ抑圧と感じる、別の感性が支配的となる。

上記をまとめると次のようになる。近代に続く1970年代以降がポストモダンとして分類される。そしてポストモダンでは近代を支配していた大きな物語が共有されなくなり、個々人が多種多様な"物語"を信じることが肯定されてくる。上記引用部分ではそのようなことが書かれている。そしてこの引用部は、宇野氏が指摘していた「9.11以降のバトルロワイヤル状況」--無数の「小さい存在」同士が「自分の信じたいものを信じて」戦う--とほぼ同じことを指摘している。それをよりはっきりと示しているのが上記に続く以下の箇所だ。

ポストモダンにおいても、近代においてと同じく、無数の「大きな」物語が作られ、流通し、消費されている。そして、それを信じるのは個人の自由である。しかし、ポストモダン相対主義的で多文化主義的な倫理のもとでは、かりにある「大きな」物語を信じたとしても、それをほかのひとも信じるべきだと考えることができない。たとえば、もしかりにあなたが特定の宗教の熱心な信者だったとして、現代社会はその信仰は認めるが、あなたがすべてのひとがあなたの神に帰依するべきだと考え、ほかの神への寛容を侵害することは、たとえそれこそが信仰の表れだったとしても決して許さない。言いかえれば、ポストモダンにおいては、すべての「大きな」物語は、ほかの多様な物語のひとつとして、すなわち「小さな物語」としてのみ流通することが許されている(それを許せないのがいわゆる原理主義である)。ポストモダン論では、このような状況を「大きな物語の衰退」と呼んでいる。

ここには宇野氏が指摘していた「信じたいものを信じて戦う」というゼロ年代的なバトルロワイヤルと類似したものが既に書かれている。しかもそれは、ゼロ年代の特徴ではなく1970年代以降のポストモダンを表す特徴だという。

だから宇野氏がこう主張するのなら理解できる。すなわち、1970年代から続くポストモダン的な"小さな物語"の乱立状態は、9.11を契機として原理主義的なバトルロワイヤルへと変貌を遂げている、と。しかしこの場合、両者は同じポストモダン論の上に立脚していることになる。ならば宇野氏は東氏との対立軸にではなく、東氏の延長線上に論陣を張れば済む話だろう。しかしそうせずに、彼はそこに対立構造を導入している。『ゼロ年代の想像力』はそのように捉えることもできる。

宇野氏が果たしてこの点--小さな物語の乱立をデータベース消費と呼ぶか、原理主義的なバトルロワイヤルと呼ぶかという問題--に自覚的なのかは判らない。もし無自覚であるのなら、その状況認識は少なくとも10年単位で遅れていると指摘できるだろう。なぜなら、9.11以降に小さな物語の乱立が始まったと捉えるのは、ポストモダンが1970年代から始まったとする分類と大きく乖離しているからだ。

もし自覚的であるなら、宇野氏は小さな物語の乱立をどう捉えるのかという問題から視線を逸らすために、わざわざ東氏を"セカイ系の亡者"と呼んでいると考えることもできる。そうすることで東氏と宇野氏の関係を90年代とゼロ年代の対立軸に仕立て上げることができるからだ。そして、『ゼロ年代の想像力』の中でたびたび繰り返しているように、90年代にすがり付くゾンビたちを一掃しようとしているのかもしれない--『ゼロ年代の想像力』でムーブメントを引き起こして*1

というわけで、第4回にあまり進歩的な内容がなかったため、今回はこのような内容でお茶を濁してみた。最後になるが、『ゼロ年代の想像力』がSFマガジンで連載されている理由が未だによく理解できないでいる。この連載がもっとも綺麗にはまるのは東氏が去ったファウスト誌上でのことだろう。しかし、現実として『ゼロ年代の想像力』はサブカルチャー/オタク系文化批評とあまり親密ではなさそうなSFマガジンに居を構えている。そして宇野氏の言葉を借りるなら、『ゼロ年代の想像力』は批評ではないという。

だとすれば、『ゼロ年代の想像力』が実はサイエンス・フィクションだったら良いと思う。これならSFマガジンで連載されていることにも不自然なところはない。来るべき2010年代の想像力を、宇野常寛センス・オブ・ワンダーで早く示して欲しい。もはや興味を持てるところはそれしかないのだから。

*1:引き起こすことができれば、だが

グラフィティとしてのはてなスター

さんざん既出とは思いますが、はてなスターの引用機能はおもしろい。ご存じない方のために機能を簡単に説明すると、スターをaddするとき、エントリのある部分をドラッグしながら星を与えると、ドラッグした部分が星にキャプションとして付属するというものです。つまり星をつけるときにどこが良かったのかを引用して明示することができるわけです。正直なところ、twitterの次はtumblrかよと思わないでもない。ただ、想像力さえ働かせればもっとおもしろい使い方もできるし、既にやっている人たちもいるはずだよね。

例えばエントリから1つずつ違う文字を引用していくことで、もともと存在しなかった文章を紡ぐことだってできる。それでメッセージを伝えてしまうこともできるのだ。素敵なエントリから1文字ずつ星で紡いで「あ」「ん」「た」「バ」「カ」「ァ」と親愛を込めてみたり。苦難に直面しているブロガーのエントリから「逃」「げ」「ち」「ゃ」「ダ」「メ」「だ」と抽出してエールを送ったり。巡回先で自分のことを褒められてたら「な」「に」「を」「言」「う」「の」「よ」とか。

でも、この機能が示した重要な点は、僕たちはその気になればどこにでも落書きをできるということにあるのではないかと思う。例えばそのエントリがエヴァとは全然関係ないものだったとしても、エントリの中に「レ」と「イ」と「、」と「心」と「の」と「向」と「こ」と「う」と「に」が含まれていたらそれだけで「レイ、心の向こうに」と紡ぐことができてしまう。ぜんぜん関係ないことを記されたとき、はたしてブロガーはどう感じるのだろう。それは個人的には好ましい状況だとは思わない。しかし。

もしもはてなスターの引用機能だけで文章を紡ぐことが芸になり得るのであれば、あらゆる文脈を乗り越えた自己表現が盛んになるということもあるかもしれない。例えば、限られた文字数のエントリ内で、より少ないスターを使ってどれだけ人目を引くポエムを紡げるのか、ブロガーたちがそのスキルを競うような空間が生成されたらおもしろい。もちろんその空間というのはどのブログでもいいわけではなくて、ちゃんと定められた場を提供する。そしてルールを決める。その上でスキルを競う。グラフィティ*1を、ストリートの文化をウェブに。

今日僕はそんなことを夢想した。

*1:グラフィティというよりはリーガル・ウォールか

モウリーニョのチェルシー退団に寄せて

このタイミングで退団か…。もともといつ辞めてもおかしくはなかったわけだけど、せめて今季いっぱいはチェルシーを率いて欲しかった。モウリーニョが動く瞬間は何が起こるんだろうという期待とワクワク感が満載で大好きだった。新天地ではチェルシーとは違うスタイルのサッカーを見せて欲しいな。あと次のチームでの入団会見もね。

アスカとシンジ、四郎と三郎

最近ブログ上でヱヴァヱヴァ言ってて思い出したんだけど、かつて奈津川サーガをエヴァで語ろうとしたことがありました。ちょうど『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズとエヴァの対応関係を列挙するような感じで。かなり無理やりです。批評性を持つようなエントリにまで昇華できかったので温存しておいたんだけど、このまま手元に置いておいても意味はないのでネタとして公開してしまいます。ネタとしても下の下なので公開したところであんまり意味もないんだけど。以下、大したことは書いてないけど『煙か土か食い物』と『暗闇の中で子供』のクリティカルなネタバレがあります。

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