第5回:奈津川兄弟の精神分析

鉄は熱いうちに釘バットでメッタ打ち!インターバル2日でお届けする舞城論、俺の妄想力もいよいよ全開フルスロットル。ソウ、バックルユアシートベルト!以下には舞城王太郎著『煙か土か食い物』、『暗闇の中で子供』、『駒月万紀子』についてのネタバレがあります。第4回で論じたことの延長ですので、未読の方は第4回からどうぞ。やっぱり断定口調ですが解釈のひとつと思ってください。なお、筆者は精神分析にまったくもって疎いです。疎いと百万回言ってもあと一回言い足りないくらい疎いです。『戦闘美少女の精神分析』を読んだことはありますが、専門書を読んだことは一度たりともありません。どうしようもない間違いがあっても、笑って流すくらいの度量を読者に求めます。なお、エディプス・コンプレックスについての説明はWeb上で公開されていた斎藤環氏の解説を要約したものです。この場で斎藤氏に感謝の意を表します。


1.四郎の心的外傷
まずはおさらいから始めよう。第4回では四郎に焦点を当てて論じたが、その中で彼が母親を潜在的に避けていたことを明確にした。トラウマが原因で四郎は女性とまともな関係(インティマシー)を構築できなかった。そして四郎がトラウマを負ったのは陽子が二郎を守らなかったからだ。四郎の未分化の感受性が、「父親に虐待されている、母親に守ってもらえない」と感じさせ、ひいては女性関係に影を落としてしまったわけである。
さて、ここからが本題となる。

2.三郎の心的外傷
四郎と同じ家で過ごし同じく二郎に対する虐待を見続けた三郎は、はたして傷を負っていないのだろうか?彼にとって女性との関係は?女性の指を舐めるという行為は何を意味するのか?第3回では『暗闇』の虚構と現実について論じた。“指舐め”が登場するのはONEであり、それは三郎による虚構と仮定したパートである。彼は自らに何を感じているのか?虚構にフェラチオまがいの“指舐め”を登場させたことの意味は?
三郎は母親を拒絶しており、女性不信で潜在的にはホモなのだろうか?これはわかりやすい考えだが、短絡にすぎる。そして、それはないと断定できる。なぜなら、ホモのオカチは三郎のホモ性を否定しているし、荒木一雄の指を舐めたとき三郎は強烈な嫌悪感を覚えたからだ。物事はそのような表層にあるのではない。『暗闇の中で子供』が小説家である三郎の虚構ということを考えれば、これは紛れもなくメタファーである。
では、女性の指を舐めるという行為の真の意味は何か。三郎はこの行為をフェラチオのようだと自ら語っている。女性の指をペニスのように舐めるということ。ここから判断するに、三郎は女性にペニスを求めているのではないだろうか。といっても両性具有の話をしているのではない。ここでいうペニスを持った女性とは、精神分析で用いられるファリック・マザーという概念だ。ペニスを持った母親とは、権威的に振る舞う女性。ある種の万能感、完全性の象徴。
彼の母親、奈津川陽子は丸雄という権威に隷属する存在だ。丸雄が二郎を虐待しても、陽子は決して二郎を守らない。それ故、四郎は母親を潜在的に避けてきた。では三郎はどうだろう?三郎が母親を避けていたのかはわからない。なぜなら彼は奈津川の家を出たことがない。つまり、両親との接し方が四郎とは違うといえるのではないか。言い換えるなら、三郎は母親に絶望していなかったのではないか。拒絶して家を飛び出さなかったということは、寧ろ、ある種の期待がそこにあったのではないかと推測する。三郎は陽子になにかを求めていたのではないだろうか。それさえあれば、この家で充分やっていけるという類のなにかを。
三郎が陽子に求めていたもの、それは権威性だ。丸雄に対抗することが可能なほど大きな権威。三郎もまた、陽子に二郎を守って欲しかったのではないだろうか。丸雄に対抗して二郎を守ることで、三郎を守って欲しかったのではないだろうか。三郎と四郎は一歳しか違わない。それ故、三郎もまた二郎と未分化だったとしてもなんら不思議はないのだ。つまり三郎は、母親を含めた女性に権威(ペニス)を求めるというメタファーとして、指を舐めるという行為を虚構の世界に描くのだ。以下に理解促進のため、ファリック・マザーとエディプス・コンプレックスについての概要を載せる。

3.ファリック・マザー、エディプス・コンプレックス
精神分析学者ラカンは数あるコンプレックスの中で、エディプス・コンプレックスを重要視していたという。彼によれば幼児は母親と一体化した万能感あふれる空間に過ごす。言葉を知らない幼児にとって「自分」と「母親」の区別は曖昧で混沌としている。そのとき母親はまさしく「世界」そのものだ。すべてが叶う万能の世界、自分を守ってくれる万能の存在=ペニスを持った母親/ファリック・マザー。この近親相姦的な空間に割り込むのが「父親」だ。
子供は「父親」と接することで「母親」にペニスが存在しないことを嫌でも認識する。子供のなかで、それまで万能の存在だった「母親」像が崩壊する。「母親」=世界との間にギャップを感じた子供は、母親のペニスを補完するべく自らがペニスになろうとする。
しかし母親のペニスになりたいという願望は早々に打ち砕かれる。なぜなら母親が本当に欲しているのは父親のペニスだからだ。そして子供はペニスになることを諦める。諦めた子供は、母親が求める父親に同一化してその象徴たるペニスを持ちたいと願う。しかし、ペニスそのものにも父親にもなれない。そこで子供は、せめて父親のペニスの代替物を所有することで、母親=世界との間の溝を埋めようとする。このペニスに対する“あきらめ”を「去勢」という。ラカンはエディプス期の「去勢」という通過儀礼によって、子供は言語を語る存在、すなわち「人間」になるとした。
なお、“ペニス”とは男根それ自体を指すだけではなく、父親の持つ財産や社会的な地位などでもありうる。つまりペニス=権威という図式も充分にありうるのだ。以上を理由として、三郎もまた外傷を受けていたと推測する。

4.二郎の心的外傷
二郎はどうだろう?三郎、四郎と違って、二郎は父親からダイレクトに虐待を受け、母親に守ってもらえなかったという凄絶な傷を持つ。彼は実験的多重人格と自らを称し、意図的に同一性障害を引き起こしたというが、それは本当に実験的で意図的なのだろうか?
それとは別に、気になっていることがある。『駒月万紀子』は1998年秋に駒月万紀子が過去を振り返るという構造の物語だ。過去とは、ベルギーでの二郎との出会いから、日本に帰ってきて二郎とセックスをするというところまで。それは1995年以降のこと。ベルギーから帰国する前日、二郎はある男を殺した。頭蓋骨に穴を開けて頭の中にメスを隠すという方法で、厳重なチェックを潜り抜けた二郎。それを駒月万紀子はこう評している。

ふりと演技といえば二郎のレクター論で、あの頭の蓋パカリの発想もトマス・ハリスの『ハンニバル』から来ているんだろう。

ハンニバル』がアメリカで出版されたのは1999年、日本では2000年のことだ。1995年の時点で二郎が『ハンニバル』を参考にできたはずがない。駒月万紀子が過去を振り返るのは1998年秋。もしかしたら駒月は1999年以降にハンニバルを読んで、1998年以前のことを振り返っているのかもしれない。もしかしたら駒月が勝手にそう思っているだけで、二郎は『ハンニバル』をまったく参考にしていないのかもしれない。あの“頭の蓋パカリ”は、ただの偶然の一致かもしれない。二郎とレクターに発生したシンクロニシティかもしれない。
しかし、舞城は『暗闇』で意図的な表現の違いを用いている。橋本敬の死因の不一致、魍魎ヶ池と手の平池。今回もその類かもしれない。そう考えると『駒月万紀子』は今の時点で参考にはできない。つまり判断材料が少なすぎるため二郎の精神分析はしないでおこう。傷があることは間違いないと思うのだが。*1


5.一郎には外傷がない
三郎と四郎が傷を負ったのは、二郎と未分化だったせいだ。そして二郎は傷を負った本人だ。では兄弟最後の一人、奈津川一郎はどうだろう。彼もまた横暴な父親と存在感のない母親*2に育てられた。傷を負う条件は、充分すぎるほど満たされているようにみえる。しかし、彼に外傷は見られないと推測する。

「四郎、おめえこの事件をどうしたいんや。お母さん殴った犯人捕まえたいんか」
「ほうや」と俺。「当たり前や。兄貴は違うんかい」
「俺はどうしてもそういう感情が持てん」と一郎は迷わずに言った。何の躊躇もなし。「別に犯人なんてどうでもええ。お母さんさえ回復してくれたら俺はええよ」
「犯人捕まえとかんと他に犠牲者が出るげや」と俺は言う。
しかし一郎は言う。「俺のお母さんは一人や」。一郎に迷いはない。ついでに他人に自分を投影することもない。感情移入をしない。一郎は一郎。

一郎は一郎。感情移入をしない。殴られたのは二郎で、守ってもらえなかったのも二郎だ。しかし、これは一郎が大人になってから築き上げたスタイルかもしれない。従って、二郎が虐待されていた頃の一郎を振り返る必要がある。当時の一郎は、二郎が虐待を受けているとして周囲の大人たちに助けを求めた。重要なのは、このとき一郎が陽子に助けを求めていたということだ。『煙』のTENから該当箇所を引用する。

小学校の高学年になっていた一郎は俺みたいにただ傍観してはいなかった。一郎は弟の二郎を守るために色んな手段を試した。まず最初に家族に助けを求めた。(中略)おふくろは俺達兄弟の前から丸雄と付き合っていて夫のことをよく知っていたので自分には何もできないということが骨身に染みていた。おふくろは俺達兄弟には優しく接してくれたが丸雄には絶対に立ち向かおうとしなかった。

一郎は三郎や四郎とは違って、自ら行動していた。その行動の目的は二郎を守るということだ。一郎はまず母親に助けを求めた。そして母親は子供を守るということに機能していないと一郎は悟る。母親に対して早々に見切りを付けた一郎は自分で二郎を守ろうとした。一郎は法律を持ち出して丸雄に対抗した。そして丸雄は譲歩し、しばらく家を空けることになる。一郎は独力で丸雄に勝利したのだ。陽子に二郎を守って欲しかった三郎と四郎。一方、自力で二郎を助けた一郎。両者の間には決定的な隔たりがある。それはつまり、一郎には外傷がないということだ。
傷がない一郎の成長過程をエディプス期から辿ろう。母親にペニスがないと知った子供は、母親のペニスになりたいと願う。しかし母親が求めるペニスは父親のものである。母親のペニスになりたいという願望を打ち砕かれた子供は、母親が求める父親に同一化してその象徴たるペニスを持ちたいと願う。しかし子供はペニスそのものにも父親にもなれない。そこで、せめて父親のペニスの代替物を所有することで、母親=世界との間の溝を埋めようとする。これがエディプス期の「去勢」だ。一郎は傷を持たないが故に、父親が歩いた道(秘書→県議→中央政界)をそのまま辿ろうとする。辿ることで丸雄が持っている権力という“ペニス”を手に入れようとしているのだ。また、四郎がトラウマを乗り越えたということも『暗闇』で記されている。以下にEIGHTから引用しよう。

(中略)俺はいう。「もう嫌や。もーう嫌や。大体ウチのもんの嫌なところは、こういうところなんや。いっつもいっつもおんなじ問題が、なーんにも解決されんといっつもいっつもくり返し出てくるところなんや。同じことばーっかくり返して、だーれもなーんも成長せんところなんや」(中略)
「そんなことねえぞ」と長谷川克之は強く言った。皆それなりにいろんなこと考えて成長してるんやぞ」
俺には訳が判らない。「どこがだっつの」。大体俺の家族でもないお前に何が判るんだよ?
長谷川克之がこう言って俺を驚かせる。「あれやぞ、四郎さん、夏の衆院選代理人として立候補して、お父さんとお兄さんの代わりに選挙やろうと思ってたんやぞ」

『暗闇』のEIGHTは虚構だと、第3回で仮定している。つまり、これも比喩表現に過ぎない。実際に四郎が選挙を手伝うわけではなく、ここで言いたいことは四郎がトラウマを乗り越えているということだ。トラウマを乗り越えているからこそ、四郎は丸雄と一郎が歩く道を代わりに歩くことができるのだと、三郎は虚構の世界に描いたのだ。何故なら、その道を辿ることが父親のペニスを象徴するものであり、それを手に入れるということが奈津川兄弟にとっての「去勢」なのだから。

あとがき
今回、書評とは言えないこんな試みをしたのは、前回で四郎の傷を開いたからです。四郎が潜在的に抱える母親への拒絶を考えたとき、彼の兄弟は同様の傷を負っていないのだろうかと考えたのが始まり。ド素人がやったことですので、あまり深く考えずに楽しんでもらいたいと思います。二郎を早々にあきらめ、運命の夜その場にいなかった一郎だけが兄弟でただ一人結婚しているというのも面白い偶然だと思ったり思わなかったり。とにかく、このような話に結論はでないと思っています。なぜなら、舞城作品がこの先どんなふうに転ぶかわからないことは読者なら充分に判ることですからね。
ちなみにエディプス・コンプレックスについて調べているとき、適当に自分の幼児期を分析してみたら酷く憂鬱な気分になりました。どうでもいいですね。

*1:ハンニバル』との時系列に関しては、俺が『駒月』を誤読しているだけかもしれません

*2:当時の奈津川陽子にどれだけ存在感がないかは、『煙』のNINE、TEN、ELEVENを読めばわかるだろう。