セカイの終わりも魔法次第

以下では西島大介著『世界の終わりの魔法使い』についてのネタバレを含みます。未読の方は回避を絶対に推奨。例によって解釈のひとつですので、そこんとこよろしく。なお、引用箇所の句読点は読みやすくするためにこちらで勝手につけたものです。


1.世界への反抗
本作の主人公・ムギは魔法の世界の住人でありながら魔法を使えない。使えないにも関わらず、彼は自分の意思で魔法を使わないとして周囲に抵抗している。代わりに彼はエア・ボードという、魔法とは違う手段で空を飛ぼうと試みる。そして、それは世界への抵抗という意味を持つ。以下は先生からムギへの最期の言葉であり、本作のほとんどすべてといっていい箇所だ。

つまり、世界がわれわれを無視しつづけるのと同じように、われわれもまた世界を無視しつづけるわけだ…。しかし、例えば一冊の本を読むことはそれに抗うことだよ。一冊の本を著すこと、一篇の詩を詠むことは、世界に無視され消えてしまうことをこばむ行為だとわたしは思う。(中略)だからね、きみのやっていること、魔法に抗うことは世界に抗うことに等しい。(中略)どんなにがんばってみても、広大な世界はきみのことを無視しつづけるだけ…(中略)だけどわたしは期待しているよ。いや、願っているんだ…。いつか…いつか世界がきみに気づいてくれたらいいのに…ってね。

さて、“魔法”である。魔法とは何だろう?魔法という言葉で連想できるものは多くあるが*1、この作品の中では“ほうきで空を飛ぶこと”に集約されている*2。この世界では、ムギ以外はひとり残らず魔法を使える。そしてムギは魔法に抵抗している。つまり魔法を使えるということは、この世界のデファクト・スタンダードだといえる。物語の理解を容易にするため、主人公以外の誰もが使える“魔法”という概念を便宜的に、現実世界に即して別の概念に換言してみよう。
現実世界で、“主人公”以外の誰もがやっていることとはなんだろう?ここでは代表的なものとして、“会社に勤めて働き、その対価として賃金を得ること”を挙げよう。これは一部の人間*3が抵抗するものだ。彼ら“主人公”たちは、不特定多数に吸収されてしまうことを嫌う。そして、自らが固有の存在であると“世界”に知らしめることに心血を注ぐ。マンガ家になろうと努力する人、小説家になろうと努力する人、ミュージシャンになろうと努力する人、こんな風にインターネットで『世界の終わりと魔法使い』を評論してしまう人etc.
そして“空を飛ぶこと”は主人公も含めて全員がやっていることだ。現実世界で誰もがやっていることとは、“生きていくこと”そのものだ。主人公たちは誰もが使う“魔法”を拒んだとしても、“空を飛ぶこと”は拒めない。生きていくため(空を飛ぶため)に必要な糧を得るのが働く(魔法を使う)ということだ。つまり、ムギがエア・ボードで空を飛ぶということは生きる手段として普通とは別の道を選び、これを“世界”に認めさせることに他ならないのだ。

2.気まぐれなセカイ
ムギが反抗し、自身の存在を認めさせようとしている“世界”とは、本作のヒロイン/サン・フェアリー・アンである。これは作中でも度々言及されていることなので、ここでは余計なことは述べないでおこう。ムギが彼女の救出に向かうシーンでは、ムギの、世界に対する姿勢が表出する。

魔法なんか信じない。でも、君は信じる。

魔法は信じないが世界は信じる、それがムギの意思だ。このあとムギはエア・ボードを使ってサン・フェアリー・アンを助け出し、キスをする。自分だけの方法で世界と結ばれた、彼の勝利の瞬間である。そしてサン・フェアリー・アンはムギを連れて2000光年の彼方にある世界に向かう。ちなみに連れて行かれたムギが固有のムギなのか影のムギなのかを議論することは無意味である。何故ならムギ自身が元から影であり、ムギと影のムギはどちらもムギなのだから。余談ではあるが、ムギが元から影だということは、ムギが特別な存在ではないということを表しているように思える。それは即ち、現実においても、世界に認められるために足掻いている人間は大勢おり、その点では特別な存在は誰もいないということである。問題はそこからどんな方法で抜け出すかということだ。ここには、「ムギが採った手段はその1つに過ぎないのだから、それぞれが独自の方法を見つけてそれを達成して欲しい」という著者のメッセージを感じる。あくまで余談であるが。
とにかく、サン・フェアリー・アンはムギを世界に残し、ムギを連れて新しい世界へと旅立った。そして世界たる彼女は、ムギを好き(プー)だと祝福する。祝福するものの、彼女は世界を放りだして新しい世界に旅立ってしまった自分勝手な“世界”そのものである。ラストシーンでムギは「魔法なんて信じるもんか!!」と強い口調で言い、エア・ボードに乗って空に飛び立つ。「魔法を信じない」とは作中で幾度も繰り返された言葉だが、最後のこの台詞だけは意味合いが違う。ここで言う魔法とは“魔法使い”であり、“サン・フェアリー・アン”であり、つまり“世界”のことである。ムギのこの言葉は、紆余曲折の末に結局は我々を無視する気まぐれな世界への反抗の言葉である。
西島大介は本書のあとがきで記しているように、世界に「サン・フェアリー・アン*4/どうでもいいさ」という名前をつけた。西島はそれを、世界へのある種の反抗の言葉、作品のテーマとしている。“世界”を“どうでもいい”とするのも世界との接し方のひとつであり、反抗のひとつのかたちである。本書で描かれるのは、世界に抗う少年の、栄光の勝利とあっけない挫折と青臭いリスタート。たとえセカイが無視し続けたとしても、それでも少年は飛ばなければいけない。それが自身のレゾン・デートルなのだから。

まぁ…上記ではごちゃごちゃ言ってますが、ど真ん中のセカイ系だよなぁってのが率直な感想です。

*1:対象に火を点ける、石にする、スカートをめくるなど

*2:サン・フェアリー・アンの魔法は例外。なぜ例外かは判るはず

*3:主に本書のような物語を好む人間を指す。単に就業したくないだけの人は論外。

*4:[Ca ne fait rien.:(謝罪などに対して)かまいません、大したことはありません]本当はCにセディーユが付くので注意