poetry, criticism & “blah blah blahs”

西島大介著『土曜日の実験室 詩と批評とあと何か』収録『サブカルvsオタク最終戦争』についてのネタバレ考察です。読まれる方は、以下の内容が数ある解釈のうちの1つでしかないということを念頭においてください。


1.はじめに
サブカルvsオタク最終戦争』。この作品はマンガだろうか?マンガだとしたら実に奇妙なマンガだ。コマ割りがなされていて一見マンガとしての体裁は整っているが、この作品にはセリフらしいセリフはたった1つだけしかなく*1、2人の主要な登場人物に付随する吹き出しからは、掛け声ともつかない奇妙な発声だけが表出してくる。
中身の方はどうかというと、2人の少女風人物が奇妙な戦いを演じ、それを謎の生物が傍観していて、そうこうしているうちにいつの間にやら勝負に決着が(たぶん)ついていて、そのまま唐突に終わってしまうという9ページの作品だ。ちなみにラストは見開き2ページのため、物語としては実質8ページと言っても差し支えない。今、物語と書いたが、先述したようにこの作品にはセリフは1つしかない。従ってセリフがストーリーを伝えてくるようなタイプの作品ではない。

冒頭の問いをもう一度繰り返したい。この作品は一体マンガなのだろうか?それともスノッブでアーティな、一部の人間だけが分かれば良いという酷く高尚で大衆から距離を置いた、気取った何かだろうか?

その答えは分からない。ただ、西島大介の素晴らしい才能が溢れているということだけは間違いないだろう。詳しく考察するためにも、まずは物語の流れを整理しておこう。

2.状況整理
最初に、二人の登場人物が戦いを始めようとしている。そして、それぞれ少女のような風貌をしていて、最初は未来的な武器によって、後に超自然的な力を行使して殺し合う。そして、少女たちとはまったく別の系にある謎の生物が、彼女たちの戦いを傍観している。最終的には1人の少女が(おそらく)戦いに勝利し、敗北した少女の側で佇む。以上でこの作品は終わりである。

実に奇妙だが、これですべてである。ただし、これはあるがままを羅列しただけでしかなく、つまり作品の表層を撫でた以上のものではない。この作品を理解しようというのなら、多少の読み解きが必要となる。以下でそれを試みたい。

3.考察
まず、真っ先に指摘しなければならないことがある。それは『果たして、どちらがサブカルでどちらがオタクなのか?』というこの作品の前提とも言うべき点だ。これを見落としてしまうと話が進まない。
2人の少女が戦っている。そして、それを傍観する謎の生物の「せんそう?」という疑問符が彼女たちの戦いを指していると考えるならば、『サブカルvsオタク最終戦争』とは2人の少女の戦いを表しているとするのがもっとも素直な読み込みだろう。しかし彼女たちに名前はない。少なくとも作品中での明快な説明はなされていない。そこで最初の疑問、『果たして、どちらの少女がサブカルでどちらの少女がオタクなのか?』が持ち上がってくる。
だが、その答えはあってもなくても構わない*2。ここで重要な点は、以下の通りである。

A. 2人の少女の容姿には明確な違いが現れている
B. 2人の少女と謎の生物は、生物としては明らかに別系統である
C. 2人の少女はまったく同じ手段で互いを滅ぼそうとしている
D. 2人の戦いには決着が付いているように見える

まずB。2人の少女は人間としての容姿を備えているが、謎の生物の見た目は人間とは呼べない代物である。そしてAにある通り、2人の少女は異なる容姿を持っている。ここから、2人の少女は人間という同族であり、謎の生物は完全に別種であるということが確認できる。そしてCだが、最初は科学的な武器で、後に超自然的な力を行使して、少女たちは戦っている。Dに関しては後々触れることとして、以上をもって、この作品がどのような洞察に基づいているのか推測したい。

西島の洞察とは、簡単に言ってしまえば、サブカルとオタクが根の違う*3相容れないものだとしても、時の流れとともに区別の付かない*4存在になっており、それらが対立感情を持って小さな諍い*5を起こしているという状況はオタクでもサブカルでもないマジョリティ*6からしてみれば「ただの同族嫌悪*7にすぎない」ということである。つまり西島は2人の少女をサブカルとオタクのメタファーとし、彼女たちを戦わせることで、サブカルvsオタク論争という奇妙な状況を再現したのだ。

4.最終ではない最終戦
次に前項で挙げたDについて言及したい。この作品の最終ページからは、最終戦争が実は終わっていないことが見て取れる。その理由は2つあるのでそれぞれ見ていこう。
まず1つ目は、戦争に勝利したと思しき少女の表情がまったく勝者のそれではないことに起因する。具体的に言うならば、勝ち誇ったとか、やり遂げたとか、勝ったー!わーい!といったものが微塵も感じられないのだ。自分が殺したはずの少女の側に座り込み、曇った眉で物憂げな視線を死に顔に投げかける。対照的に死んでいる少女のほうが安らかな表情をしている。下半身を失って殺されたにも関わらず、そこには無念や怨念は感じ取れない。このシーンからは戦争が終わったと考えることが難しい。
そして2つ目の理由は、決着の付いたシーンが描かれていないことである。勝負は付いたものの、どのような手段によって相手を殺したのか?オタクがサブカルを倒したのか?あるいはその逆か?それともまったく別の外的要因によって倒されたのか?それらがまったく不明のまま放置されている。

1つ目の理由からは最終戦争が終わっていない可能性を、2つ目の理由からは最終戦争が現在進行形であるという考察の余地を見ることができる。以下に順を追って説明する。そのためには、2人の少女が戦いに用いている手段が何かのメタファーになっている可能性を考慮してみよう。

まず、彼女たちは“科学的な武器”で戦い始める。この武器を見たとき、誰もがSTAR WARSライトセーバーを想像することだろう。ここで“科学的な武器”とは“SF”のメタファーであると仮定したい。その武器を捨てて、次に彼女たちは中空を舞い、超自然的な力で相手を攻撃し、さながらドラゴンボール的戦いを戦う。これは“ゲーム/マンガ/アニメ的リアリズム”のメタファーであると推測できる。
つまり西島は、サブカルとオタクのフィールド(論争の場)の遷移をそのまま2人の戦争様式に投影したわけである*8。そして“SF”とは過去のサブカルチャーにおけるメインストリームを、“ゲーム/マンガ/アニメ的リアリズム”とは現在のサブカルチャーのメインストリームを表しているのだと考えられる。つまり、将来的に『“ゲーム/マンガ/アニメ的リアリズム”の次は何が来るのか?』、『この最終戦争を終わらせるものは何か?』が不可視だからこそ、西島はこの戦争の決着の瞬間を描かなかったということだ。終わったのかどうか怪しい戦争と、名前の無い勝者。彼女たちは草木の生えない不毛な地で戦いを繰り広げていたが、これはサブカルvsオタクという論争そのものが不毛な戦いであるということを明示しているのではないだろうか?

5. ゲーム/マンガ/アニメ的リアリズムの肯定
少女たちが目の前でド派手なバトルを展開しているにも関わらず、謎の生物たちの「せんそう?」という気の抜けたセリフで彼らの間の温度差を示しているように、『サブカルvsオタク最終戦争』は「サブカルvsオタクなんてどうでもいい」というスタンスを表明している。しかしそれは「サブカルなんてどうでもいい」でも「オタクなんてどうでもいい」でもない。ただ単に“サブカルvsオタク”という論争に興味が無いだけだ。それを表すように、この作品では“ゲーム/マンガ/アニメ的リアリズム”に根差したギミックが仕込まれている。
冒頭でも、この作品にはセリフらしいセリフが1つしかなく、セリフはストーリーを伝えてこないと書いた。しかしそれはミクロな視点に立った場合である。マクロに俯瞰することでメッセージは浮かび上がる。以下はこの作品の吹き出し文字や擬音語を抜き出して並べたものである。

『さっ』『ブゥゥ』『ブブブ』『ブゥ』『カッ』『るぅっ!』『タッ』『タッ』『いっ!?』『おおおぉ』『たぁっ!!』『くっ…』『サッ』『イィィィ…』『シュゥゥゥゥ…』『せっ!』

ギミックが仕込まれていると言っても大袈裟な話ではない。これらの吹き出し文字、書き文字を続けて読むだけである。『さぶかるたいおたくさいしゅうせ』。つまり、サブカルvsオタク最終戦争。この作品のタイトルである。こういったギミックは実にゲーム/マンガ/アニメ的であり、現実のリアリズムとは無縁だ。このようにゲーム/マンガ/アニメ的リアリズムの文脈を用いてサブカルvsオタク論争のくだらなさを描くことで、この作品は“サブカルvsオタク”論争を軽やかに否定している。

*1:謎の生物による「せんそう?」というもの

*2:一方が下半身を切断されているというラストシーンから答えを導くことは可能だろう

*3:ルーツの違いを容姿の違いとして表現している

*4:サブカルとオタクは別物」と言い張っても殆ど違いがあるようには見えないということを、2人の少女に同じ手段を用いて戦わせることで描いている

*5:2人の戦いはド派手だが、外部(謎の生物=一般大衆)にまで及ぶものではない

*6:謎の生物

*7:サブカル/オタクと一般大衆を区別するために、2人の少女と謎の生物をまったく別系統の生物として設定している

*8:多様なジャンルに基づいて細分化されたサブカル/オタクのフィールドに関しては目を瞑っておく