“妬みの文学”、それともただのデータベース消費か

以下では佐藤友哉著『赤色のモスコミュール』と舞城王太郎著『暗闇の中で子供』について、ネタバレありで適当なことをたれ流しています。くれぐれも本気で読まないでください。


佐藤友哉の『赤色のモスコミュール』には、舞城王太郎の『暗闇の中で子供』と共通するイメージが少なからず見られる。例えばマネキンを埋めるという行為はそのものずばり両者で共通するイメージであり、『赤色』にて先輩のペニスが切断されてその切断されたペニスが射精するというシーンは、『暗闇』で犬のペニスが切断されると同時に射精するというシーンと符合する。これは、舞城の人気に嫉妬した佐藤*1が、悔し紛れに舞城を告発するという構図に見える。つまりそれは、舞城のネタを用いた作品を発表することで「舞城の作品は他人から借用したネタで出来ている」という告発をしているという意味だ。
舞城の作品がデータベース消費に立脚していることは、彼を熱心に追っている読者なら充分に知るところだろう。彼には他人のガジェットを再構築して物語を作るという一面がある*2。しかしながら、彼の作品の本質はガジェットにあるわけでは決してないし、また、今は舞城の本質が何かを論じる機会ではない。
ここで言いたいのは、佐藤は舞城作品をガジェットとして用いた物語を構築することで、舞城の本質を見誤って彼に飛びついている一部の舞城読者に向けて、アイロニカルな悪意を投げかけているのではないかということだ。
舞城の作品には暗号や見立て殺人をはじめとして、実に惜しげもなく様々な要素が詰め込まれている。それらは実にエンターテイメント性に富んでいるが、その中のいくらかは借り物のガジェットである。実際のところ、初期の舞城作品ほどその傾向は顕著である*3
舞城自身はそれらのガジェットが借り物であることを自作で公表しているのだが、その情報にキャッチアップできていない読者のほうが多いのではないだろうか。そして、そういった読者のほうが、舞城の特徴をガジェットの素晴らしさだと思い込んでいるのではないだろうか。そういった状況を鑑みて、佐藤は舞城読者に対して批評的なアプローチ*4をしたのではないだろうかと想像する。
安易に飛びついたファンを容易に取り込んで、一部で時代の寵児のような扱いを受けていた舞城と、作家デビューはしたものの日の目を見ることなく重版童貞だった佐藤。この構図に飛びついて、「佐藤は舞城に嫉妬している」と勘繰るのは、それこそ安易に過ぎるかも知れない。
さらに言うなら、佐藤はジョイスサリンジャーからもイメージを拝借しているようだ。つまり、佐藤は舞城を告発する気など全くなく、ただ単に二次創作/データベース消費的世界観を体現していただけなのかも知れない。
この点を煮詰めるには佐藤の諸作を充分に読んでいる必要があるのだが、生憎のところ『赤色〜』と文芸合宿での連作と短編しか読んだことがないため、論じるにしても説得力ないよなぁというのがこの駄文のオチでした。オチてもいないけどね。

*1:今でこそ佐藤も充分に人気と認知を得た作家だが、当時は舞城に水を空けられていた(一部で人気は充分にあったが)。それは彼が重版童貞であったという点で如実に表れている

*2:詳しくは彼が自作で名前を挙げている作家の作品(ポール・オースターなど)を参照のこと

*3:つまり、ファウストvol.1が発行された当時は、その傾向が多く見られたということ

*4:特にファウストvol.1は舞城が巻頭だったこともある