東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』読了

一人目の東浩紀は言う。「今はメタ物語の時代だから、ぼくたちプレイヤーは物語を形而上で読み替えてただひとつの構造的主題を見出し、それをぼくたちの現実として楽しむべきなのです。レッツ動物化
二人目の東浩紀は言う。「一人目がメタ物語を次々と読み替えていくのにはもう耐えられない。ぼくはこの世界で妻と娘の三人で幸せに生きたいんだ。それがぼくの現実なんだ。」
三人目の東浩紀は言う。「ぼくがいつものごとく結論を読者に委ねているのは、別にその責務を放棄しているわけではなく、大きな物語が拡散してその力が衰えたポストモダンのフィールドでは、その文学(広義の文学)の主題が自然主義的な”現実と私の関係性”からポストモダン的な”メタ物語=視点プレイヤーの感情”へと変遷することになり、その新たな主題ゆえに物語は無数の読み替えが可能となり、つまり選択をする・選択を拒否するということそのものに、ポストモダンの現実が表れるからです」

東浩紀はラストで結論を読者に委ねることによって、ポストモダンについて論じている『ゲーム的リアリズムの誕生』自体が『All You Need Is Kill』や『ONE』、『Ever17』や『ひぐらしのなく頃に』と同種のポストモダン的構造的主題を反復している(あるいはメタ物語に取り込まれてしまっていると言い換えてもいい)という事実を提示しており、つまりあのラストには本書すら環境分析的な読解で解体可能である/解体されてしまうという自己言及が表れていると言える。そしてそれは、ネット/非ネットを問わずさまざまな言論空間で、本書をベースに建設的かつ発展的な批評が生まれて欲しいという著者の願いだ。

以下、感想(前置き長いな)。

第1章は著者らしく非常にクリアな言説で大変おもしろく読んだ。言い換えれば腑に落ちたということです。第2章では第1章を補強するべくゲーム的リアリズムの実例を出して環境分析をしていたんだけれど、皮肉なことにその参照作品への言及が具体的であれば具体的であるほど、第1章がどんどん胡散臭くなってきて、しまいにはこれは蛇足なのではないかとすら感じられてきた。これは参照作品が半透明な文体に支えられているからこそ、起こりえたのだろうか?読者がそう思うことさえ見越した著者の意図的な配置なのだろうか?俺にはよく分からない。

というように俺はかなり本書にコミットしてしまっているけれど、それくらいおもしろかった。結論は『動物化するポストモダン』と同じく読者に委ねられているけれど、『動ポモ』に倣って言えば「マンガだゲームだ、純文学だライトノベルだといった区別なしに、自由に分析し、自由に批評できるような時代を作るため」にそうされているわけで、つまり著者は責任を放棄しているわけではない。それをメタフィクショナルに回収するために、俺は、東浩紀をネタにした『九十九十九』のメタ物語を冒頭に配置したまでです。