第2回:『九十九十九』と清涼院流水

ネタバレあり!必ず↓を読んで詳細を確認してください。

以下では『九十九十九』についてのネタバレが含まれます。未読の方はくれぐれも読まないようにご注意ください。また『駒月万紀子』についての言及も含みます。その他の舞城作品についても、内容ではなく、その在り方について言及されています。従って、舞城作品を数える程しか読んでいないという方には全くお薦めできない内容となっております。なお『動物化するポストモダン2』(ファウスト収録)で、東浩紀氏が『九十九十九』についての非常に興味深い評論をされています。前回申し上げた通り、この私的舞城論は、『動物化するポストモダン』を参考にしつつ舞城王太郎を読み解こうという企図の元に成り立っています。何が言いたいのかというと、本家本元が『九十九十九』を解体してんだからオレの出番なんてあるわけねぇじゃんということです。でも書きました。『動物化するポストモダン2』でメインとして言及されなかった部分です。なお、良くわからないときは前回掲載部分を参考にしつつ読んでください。


1.序
九十九十九』の第2話には何の脈絡もなく『動物化するポストモダン』が登場している(P126参照)。他に作中に登場する書籍は、清涼院流水の『コズミック』『ジョーカー』『カーニバル・イヴ』『カーニバル』『カーニバル・デイ』と『清涼院流水 第一話〜第七話』だけである*1。本作がJDCトリビュートであることを考えれば清涼院の作品が登場したとしても何ら不思議はないが、JDCトリビュートと『動物化するポストモダン』の間には何の関係もないので、その登場には疑問を抱かざるを得ない。しかし逆の立場からはどうだろう。第1回でも言及したが『動物化するポストモダン』は清涼院についての内容を含んでいる。つまり『動物化するポストモダン』から清涼院流水、ひいては『九十九十九』を読み解くことは可能なのだ。私は『九十九十九』に『動物化するポストモダン』が登場することは、舞城からのメッセージなのではないかと思っている。あらゆる読みを許す作品の中で、作者が指定した読みの所在を示すもの。それが第二話に登場した『動物化するポストモダン』なのではないだろうか。

2.コピー≦二次創作<オリジナル
オタク系文化を語る上で避けられないもののひとつに二次創作の存在がある。二次創作とは、データベースから要素を抽出して作り上げられたコピー以上オリジナル未満の作品形態である。わかり易く言えば、オリジナルの要素を引用しながらもオリジナルではない物語を創作することである(例えば、藤子F不二雄以外の人物がドラえもんに登場するキャラクターを用いてオリジナルにない物語を作り上げること)。
オタク系の作品では、オリジナルの段階から既に先行作品の引用・模倣であることが多い*2。つまりオタク系文化には“二次創作に近いオリジナル”を元に作成された二次創作が溢れているのだ。これと非常に良く似た状況がある。それは前回触れた、清涼院流水の創作姿勢である。

3.二次創作的創作
清涼院は、意識的に現実とはほとんど関係を持たない作品、自覚的にデータベースを消費した作品を作り上げている。言い換えれば、故意に先行作品から登場人物やミステリ要素を引用・模倣して作品を作り上げているということである。これはオタク系文化にあふれる作品と酷似している。そして清涼院自身がそのことに自覚的である以上、清涼院の作品はオリジナルの段階からほとんど二次創作そのものだと言っていい。そしてJDCトリビュート『九十九十九』は、二次創作的な清涼院の作品を元にした二次創作である。さらに『九十九十九』は第一話を第二話が、第一〜二話を第三話が、というように前話までの内容を次話が飲み込んでいくという構造を持つ。そして、いずれの場合も前話までの内容は一部だけ正しいとして次話に引き継がれていく。ここで舞城は、オリジナルの要素(前話)を引用しながらもオリジナルではない物語(次話)を創作している。つまり第n話は「“清涼院の二次創作である『九十九十九』”の第n-1話までの内容」を元にした二次創作だと言える(n≦2)。このように、『九十九十九』は作品の在り方だけではなく、作品の構造にも多層的に二次創作が取り込まれている。そして『九十九十九』には西暁調布市アルマゲドン、といった舞城作品に既に登場したことのある固有名詞が含まれる。これは本作が舞城作品の二次創作としても機能し得ることを表している。

4.二次創作的創作について、舞城作品全体への敷衍
さらに話を飛躍させよう。『九十九十九』の第n話が、第n-1話までの内容を完全には引き継いでいないことは既に述べた。すなわち“第n話に登場する九十九十九”は“第n-1話までに登場する九十九十九”とは名前が同じながらも別人であるといえる。これに類似するものを舞城作品の読者なら見たことがあるはずだ。そう、舞城作品には同一の姓名を持ちながら、同じような地域(西暁、調布など)で展開される別の物語に、全く別の人物として登場する複数の存在が確認できるのだ。詳しい登場作品は挙げないが、森本有紀、橋本敬、野崎博司、愛媛川十三、鞘木あかな、白碑将美、三田村英宣、鋸屋昌幸などの人物がそうだ。つまり舞城は『九十九十九』以前から、自作を二次創作のように扱っていたといえる*3。そして当の『九十九十九』も『駒月万紀子』の中で三郎の小説として回収してしまっている。『九十九十九』を読んだ後は、個々の舞城作品が持つメタレヴェルを測ることが難しくなってしまう。つまり、舞城作品の中心として捉えられることの多い奈津川サーガですら聖域ではなく、どの作品が最も上位なのかを読者が正確に把握することはできないのだ。

5.ツクモジュウク=清涼院流水
2回に渡ってお届けしたオタク系文化/データベース消費の文脈で読む限り、エンターテイメント/ミステリ作家としての舞城王太郎清涼院流水は極めて近い認識を持っていると言える。両者の作品には見立てや頭部切断、密室、アナグラムといったミステリ的要素が多く登場する。そして両者はともに、それらのミステリ要素を、ただミステリ要素として提示するためだけに用いている。ミステリで古来より重要視されてきた名探偵によるロジックはそこにはない。あるのはミステリ要素だけという異形。それ故、清涼院はまるで異星人のように扱われることが多い。そして舞城の『九十九十九』も、その難解な構成と相俟って敬遠されることが多い。しかしオタク系文化/データベース消費という視点からは、そこには全く別の姿が現れてくる。ある視点からは理解不能の存在として扱われるが、別の視点からは計算された、どこまでもロジカルで美しい構成が見えてくるのだ。
ツクモジュウクは舞城王太郎の『九十九十九』であり、清涼院流水だ。作中での真実のツクモジュウクが3つの頭を持つ奇形であり、妄想の世界のツクモジュウクは人を失神させるほど美しいという対比が、あるいはこのことを示唆しているのかもしれないとするのは深読みに過ぎるだろうか。

6.最後に
『舞城/清涼院/データベース消費の関係』をテーマにした評論は今回で終わりです。評論というかオレの中でのスタンスは、舞城・清涼院にフォーカスした『動物化するポストモダン』の二次創作という感じですけど。つまり、データベース消費と二次創作に言及した『動物化するポストモダン』の二次創作がやりたかっただけなんです。
また東浩紀氏の『動物化するポストモダン2』は、ここに記された以上の情報を『九十九十九』から読み取っています。こんなヘボくはありません。

*1:第六話の始めで、7人の作家の名前が挙げられると同時に彼らの著作も列記されるが、それは言葉として現れただけであり、作中でペーパーメディアというかたちをとって登場したわけではないので除外する。また、雑誌・幻影城も見立てに使用されただけで実際には登場していないので除外

*2:データベースから引用した要素を用いてオリジナルが作成されているということ

*3:それと同時に登場人物のデータベース化もなされていた