第1回:『煙か土か食い物』に見られる、清涼院流水との類似性とデータベース消費への自覚

ネタバレあり!必ず↓を読んで詳細を確認してください。

以下では『煙か土か食い物』についてのネタバレが含まれます。『煙』を未読の方はくれぐれも読まないようにご注意ください。また清涼院流水の作品についての言及も含んでいます。ネタバレというほどではありませんが、未読の方のためにそのことを記しておきます。余計な先入観を植え付けられたくないという方は目を通さないほうが賢明です。言うまでもありませんが、以下の内容は数多くある解釈の一つに過ぎません。そういう見方もあるのかという感覚で楽しんで頂きたいと思います。以下の論述を纏めるにあたって、東浩紀氏の著作『動物化するポストモダン』を参考にしましたが、その内容と『動物化するポストモダン』に食い違いがある場合はnuff-kieの解釈が間違っていると思ってください。なお特定の人物やオタク系文化に対する誹謗・中傷は一切含んでおりません。


1.序
東浩紀の著作に『動物化するポストモダン』というものがある。オタク系文化/サブカルチャーからポストモダンの本質を読み解くという試みは、読者がオタクであろうとなかろうと興味深い内容であり、また舞城や清涼院、近年の創作フィールドの流れを辿る一つの手段としても面白い。このページでは定期的に舞城作品を読み解いていこうと思う。初回となる今回は『動物化するポストモダン』を参考に、『煙か土か食い物』に登場するドラえもんの暗号から、舞城と清涼院、そしてデータベース消費との関係性を辿っていく。話を解りやすくするために、まず『動物化するポストモダン』で提唱されるデータベース消費、そして清涼院流水について軽くふれておこう。

2.データベース消費とオタク系文化
データベース消費とは、例えばアニメのキャラクターではなく、キャラクター自身を特徴付ける要素に萌えを見出す、オタクの消費形態のことである。さらに解りやすく説明するためにアニメ『エヴァンゲリオン』に登場する綾波レイというキャラクターを例に挙げる。このキャラクターを特徴付けている要素の中で代表的なものは無口、青い髪、神秘性、赤い瞳などである。そしてデータベース消費において綾波レイに萌えを見出すオタクは、綾波レイという固有のキャラクターに萌えているのではなく綾波レイを構成する各要素に萌えているということになる。つまり無口、青い髪、神秘性、赤い瞳などの要素の集合体が綾波レイであるため、綾波レイに萌えを見出しているというわけである。
また、上記のような要素(無口、青い髪、神秘性、赤い瞳)はデータベースに登録され、他の作品のキャラクターから抽出されデータベースに登録された要素と組み合わされ、後発の作品のキャラクターを特徴付ける要素として再登場する。例えば綾波レイ、『ナデシコ』のホシノ・ルリ、『雫』の月島瑠璃子といったキャラクターは、デザイン・設定の面で多くの共通する要素を持っている。これはオタク系作品のキャラクターがもはや固有の存在にはなり得ず、消費者によって萌え要素へと解体/データベースへと登録された後に、新たなキャラクターを生み出す“材料”となっていることを表している。そしてこのことは、90年代後半以降のオタク系文化を象徴しているといえる。これを見事に体現し、舞城との類似性を持ちながらも、それをより特化したといえる清涼院流水について以下に記述する。

3.清涼院流水とデータベース消費
東浩紀によれば、清涼院流水の作品群は現実と全く繋がらず、従って現実を写生するのではなくサブカルチャーが作り出した記号の中に徹底的に閉じこもることで生まれているという。確かにその視点から見ると清涼院の世界は非常によく理解できる。つまり清涼院が描く人物はリアリティを徹底的に排除して、データベースから抽出された要素を元に創り出されたキャラクターとして存在するということだ。清涼院は『聖闘士聖矢』や『幽遊白書』の影響を受けていると度々指摘される。それを裏付けるように、彼のJDCシリーズに登場する名探偵たちは、必殺技のような名称の推理法や奇抜な姓名、人を失神させるほど美しいなどという特徴を持つ。これは非常にアニメ・マンガ的である。小説が現実を模写するところから始まったとすれば、流水大説は全くそれに馴染まない方法論で書かれていることが以上の流れで読み取れる。
そして清涼院の作品のもう一つの特徴はミステリ要素のインフレーションである。彼の作品では、他のミステリではありえないくらいの量でミステリ要素が発生する。例えばデビュー作の『コズミック』では「1年間に密室を1200個作る」という予告に始まる。また『ジョーカー』では芸術家を名乗る犯人によって、推理小説の構成要素30項を満たすという試みがなされている。それだけでも異様であるが、彼のミステリにおいて真に異様なものはその解決編である。
清涼院を未読の方のために説明すると、彼が描くミステリの解決編はほとんど物語を終わらせるためだけに存在しているようなものなのだ。他にそのような作品がないとは言い切れないが、流水大説においてそれは特に顕著である。ここには、ミステリをミステリ足らしめる“謎”の登場のほうが、その“謎”自体を解決することよりも重要視されているという捩れた構造が見られる。これが清涼院流水を一部で異形の作家と見せるものの正体である。清涼院の作品は謎(ミステリ要素)を、ただ作品を構成する要素として登場させている。つまり清涼院の作品では登場人物だけでなく、ミステリ要素もデータベース消費の対象となっているのである。

4.舞城王太郎清涼院流水、データベース消費の関係
前置きが長くなったが、本題に入りたい。『煙か土か食い物』に登場するドラえもんの暗号は、どこにも当てはまらないパズルのピースのように作品から遊離している。ここには舞城の、清涼院流水と同様にサブカルチャーからの影響、さらに清涼院同様にデータベース消費への自覚が見られる。以下に詳しく見てみよう。
EIGHTで暗号を解いた四郎が言う『ドラえもんが何だっていうんだ』という台詞に注目したい(ほぼ同じ台詞をTWELVEでマリックも口にする)。前述したように、この暗号は事件の解決にまったく関係がない。野崎博司の祖父母宅の飼い犬の名前がフジコとフジオだということとは結び付けられるが、それにしてもやはり『ドラえもんが何だっていうんだ』である。解決(物語を終わらせること)には直接関係がない謎。つまり物語をミステリ的にするために登場する謎。
ここには清涼院との類似性が見られる。言い換えればそれは、データベースから“暗号”というミステリ要素を引用したということである。そして舞城はそのことを自覚していると思われる。それ故に『ドラえもんが何だっていうんだ』という台詞で、この暗号の無意味さを表しているのではないだろうか(SEVENTEENでの“馬鹿げている”連発も象徴的)。これが意図的であるのなら、つまり舞城は清涼院とともに、ポストモダンにおけるデータベース消費に極めて自覚的な作家だということができるだろう。ドラえもんの暗号はこの文脈で見るとその存在意義が理解しやすい。キャラ萌えではなく、暗号萌え。ドラえもんの暗号の存在によって明らかになることは、アナグラムや見立てといったミステリ要素の表層ではなく、ミステリ要素の在り方そのものに舞城と清涼院の類似性があるということだ。
つまり、舞城と清涼院の類似性の本質は“共にサブカルチャーからの影響を受けた作家”ということではなく、“共にデータベース消費に対する自覚性を備えた作家”だということができる。

追記

データベース的な要素は何もドラえもんの暗号に限った話ではない。『煙』においてほとんどのミステリ要素は登場後、ほんの数ページで解決される。ここにはやはり、清涼院同様の捩れた構造が見られる。それはすなわち“謎”の登場のほうが、その“謎”自体を解決することよりも重要視されているという事実である。