デイジーチェイン・アラウンド・ザ・ワールド

これは俺の幼年期のお話。

当時の俺はとにかく引っ込み思案で、いつも母親の影に隠れているような子どもだった。だからその日も、なんでその女の子と遊んでいたのかよく思い出せないし、たぶん理由なんてなかったんだろうと思う。俺はある女の子と草むらで遊んでいた。彼女以外の女の子と男の子もいたはずだけれど、どうでもいい。まだ小学校にあがるずっと前のことだった。

とくべつ彼女のことが気になるというわけでもなかった。この日も彼女と積極的に話したりしていたわけでもない。というか彼女に俺の興味を惹くような要素はどこにもなかった。当時の俺の一大関心事は昆虫で、昆虫こそ世界のすべてだった。だからこの日もバッタを追い掛け回したり、でっかい石をひっくり返して見慣れない虫を発見したりするのが楽しくてしかたなかったことを覚えている。

ではなぜ彼女のことが俺のなかで印象的になってしまったのか。それは、彼女が草で編んだ環をさらさらの髪の毛の上に、まるで王冠のように載せているという光景が俺の目に飛び込んできたからだった。このときの俺の感情としては「草ってあんなこともできるんだ」という間の抜けたものだったけれど、それはほとんどパラダイムシフトに近かった。俺の中ではそこら辺に生えてる草が、見ようによっては素敵なアクセサリーになるところなんて想像できなかったからだ。そして、そんな装飾ひとつで女の子がかわいらしくなってしまうという事実にさらなる衝撃を受けて、単純な俺は彼女から目を離すことができなくなってしまった。

この話はオチもなくてこのまま終わりなんだけど、その後もずっと覚えていたくらい俺にとっては意味ありげなことだったので、年齢を重ねてからこの体験について改めて考えてみた。それをまとめると「さっきまで何でもなかったものが、あることをきっかけにして急に意味を持つという体験」、あるいは「今まで理解できなかったことの意味に何かの拍子に唐突に気付くという体験」といったところだったのではないかと思う。

だからこの『デイジーチェインアラウンド・ザ・ワールド』というブログタイトルは、ヒナギクを編んで環を作って地球にかぶせてみたら、そこには今まで気付くことができなかったいろんな発見があるのかもしれない、というイメージで名付けています*1

まぁ、彼女が実際にかぶっていたのはヒナギクじゃなくてペンペン草かなんかでできたものだったのだろうと思うけれど、鰯の頭も信心からってことで。

*1:以前も書いた通り、元々は小説の表題にしようと考えていた。テーマはここに書いたことと同じです